明治、大正そして昭和初期をかけぬけ、大人気を博した稀代の魔術の女王、松旭斎天勝(図①)の生年に、2説あることが知られている。明治17年(1884)と、明治19年(1886)である。それぞれの根拠となる過去の記述を列記して、その真実に迫る。
![]() |
<図1> 花束を持った天勝(36才、大正10年7月に知人に出した暑中見舞いの絵葉書) |
・土屋(鈴木)四郎「奇術日記」(図②-大正4年(1915)~大正10年(1921)に執筆)
![]() <図2>
図② 奇術日記(8.5x4.5cm、小型のポケット・ダイアリー) |
天勝の大ファンで、個人的にも非常に可愛がられた実父・土屋(旧姓・鈴木)四郎が、初代松旭斎天勝一座の楽屋や、浅草区福井町2丁目3番地にあった天勝の住まいと稽古場に、自由に出入りした時の、奇術や天勝一座の人々との関わりと思い出話を記した日記(手控え)帳。書かれた時期は、父が一高・東大生の頃で、天勝の全盛期といわれる大正4年から10年の間と略一致している。
(注:土屋(旧姓・鈴木)四郎、1896年(明治29年)東京・青山生れ、第一高等学校を経て1921年(大正10年)東京帝國大学法学部法律学科卒、同年法学部助手、1924年・北海道帝國大学助教授、1930年~1932年・文部省在外研究員としてドイツ、フランスに官費留学(留学中の1930年8月11日に、ロンドンでジャスパー・マスケリン一座のマジックショーを見学)。1940年・同大学教授。1981年没85才、筆者は四郎50才時に出生の三男)
奇術日記に、天勝自身の生い立ちを記述した部分があり、以下が書かれている。(拙著「マジックグッズ・コレクション」11頁参照、東京堂出版・2009年刊)
―「深川八幡前門前町中井、居酒屋、天一日本橋薬研掘、十三、小間使い、十五冬箱根福住、天勝、小間使い舞台、胡蝶の舞」(図③上)
![]() <図3>(上)
「先生生立」の記述 |
![]() <図3>(下)
「先生誕生日」の記述 |
注目すべきは天勝の年令に関する記載である。
―「十九、五、廿一、先生誕生日、十三日ナリト俳優鑑札ニハ記サレタリ、実ハ十七年誕生日ナリ。大正十年(1921)ニ舞台満二十五年」(図③下)
先生(天勝)の誕生日は、明治19年(1886)5月21日ということになっているが、俳優鑑札(当局からの芸人許可証)には5月13日と書かれている。しかし実際の誕生日は明治17年(1884)だという。
父(土屋四郎、明治29年生れ、丙申)が生前に、天勝は自分と同じ申(さる)年生れであったと言っていたので、そうであれば天勝は一回り(12才)年上の1884年(明治17年・甲申)生まれということになる。若い頃の数年間、天勝の身近にいて、後年に有名女流奇術師と熱心なファン以上の関係にあったであろうことを考えれば、「天勝の年令の秘密」を知っていたとしても不思議ではない(別紙・拙著「マジックグッズ・コレクション」16~17頁。「天勝-幌都のめぐりあい」参照・図④、巡業で札幌に来た天勝と、北大T助教授の再会の新聞ゴシップ記事。「濃艶な女奇術師が誘ったか、美少年があこがれ寄ったか、とにかく二人の間には華やかな東京のさかり場を背景として一つの縁が結ばれ喜びの日はつづいた・・・」と書かれている。)
![]() <図4>
新聞ゴシップ記事「北大T助教授と天勝の駅頭の邂逅(めぐりあい)」 (昭和2年(1927)7月16日土曜日付・北海タイムス) |
天勝の分骨がある東京南馬込の曹洞宗・萬福禅寺には、昭和61年(1986)秋彼岸に、寺が建てた「魔術の女王 松旭斎初代天勝の墓」の看板(実際には、天勝の人柄と至芸に心底惚れ込んで、生涯親身の世話をした三橋浅次郎支配人-昭和32年12月行年92才-の意向で立てられた看板)があり、そこには以下の言葉がある。
「・・・天勝の舞台生活40年、昭和19年(1944)11月11日、目黒権之助坂水明荘にて60年の波乱万丈の生涯を極めた。」
「60年の波乱万丈の生涯」と書かれており、そこから、生れ年は1884年(明治17年)ということになる。
・平岩白風「天勝の生涯と「水芸」のこと」
日本奇術史の著名な研究家・平岩白風(1910~2005、新聞記者生活20数年、学芸担当が多く、演芸の探訪や研究を仕事と趣味にする。名著「図説・日本の手品」青蛙房1970年刊の著者)が書いた「天勝の生涯と「水芸」のこと」によると、天勝の生年月日は「明治17年(1884)5月21日、神田松富町に中井栄次郎の長女として生まれる。申(さる)年生れ」と記されている。
・舞台生活四十年 退く「不死鳥」天勝さんから聴く 浮世の裏の種明かし
(読売新聞・昭和9年3月19日付・・・樋口保美編「松旭斎天勝興行年表」による)
「明治三十四年(1901)、わたしが十七かの時、師匠天一につれられて一行八人でアメリカに行きました・・・」と話している。これが正しければ、天勝の生年は1884年となる。思わず本当のことを言ってしまったのか?
・石田天海「奇術五十年」(発行:ユニコン貿易出版、昭和50年(1975)刊)
大正13年(1924)1月21日からの米国巡業で天勝一座に同行した石田天海(1889~1972)がこう書いている。「さてここで天勝一行の顔ぶれをご紹介しておこう。まず女性側では天勝(三十九歳、小天勝(前・徳子)(二十歳)・・・それに私の家内の信子(芸名-本名おきぬ)(二十九歳)・・・」
つまり天勝は1924年1月当時39才であり、生年は1884年5月生れであることがわかる。
・松旭斎天洋「奇術と私」(発行:㈱テンヨー、昭和51年(1976)刊)
松旭斎天洋(1888~1980)、本名・山田松太郎(図⑤)
![]() <図5>
晩年の天洋 |
天一の姉・島田せきの子である島田仲子(天一一座座員)と、金沢香林坊の森元旅館に努めていた北川吉三郎の庶子として生れる(天洋の祖母の弟が天一、天一の姪の子)。仲子は後に天一一座番頭の山田恭太郎(天洋の義父)と結婚。天一一座が、明治34年(1901)から、3年半におよぶ米国・独・仏・蘭・英の海外巡業から帰朝後の明治38年(1905)、「天松」の芸名で天一一座に入門。天勝の同座入門は、それに先立つ明治28年(1895)。
「奇術と私」(170頁)に以下の記述がある。
「松旭斎天勝は明治17年(1884)に神田で生れ、父は中井栄次郎、母はお静さんといい、その長女でかつ子と名づけられた。
・・・かつ12歳の時、世話する人があって、松旭斎天一先生に弟子入りをした。明治28年(1895)のことであった。
・・・16、17歳のころには天一一座の花形として人気も上昇し、一座にはなくてはならぬ第一人者にのし上がってきた。
・・・私が12歳のころ、堺の字の日座という芝居小屋で天一一座の興行があった時、祖母に連れられて遊びに行ったことがある。その時、宿場で天勝が湯上がり姿で鏡台の前に座っているのを見た。・・・髪は長く、瓜実顔で色が白く中肉中背で、子ども心にも実に美しい人だなあと思ったものだった。」
従って、天勝が明治19年(1886)生れだとすると、天洋はわずか2才年上の、14才の天勝の湯上り姿を見たことになる。それは不自然であり、天洋12才の子供心に見た天勝は、4才年上、16才の色気ある女性であったに違いない。
天洋は天一一座に明治38年(1905)に入門、天一引退に伴い天勝が一座を旗挙げした明治44年(1911)に、芸名を天松から天洋に改名、そのまま天勝一座に残った。その後、大正元年(1912)に天洋一座を結成した。それまでの7年間にわたり、天洋と天勝は一座を共にしている。その天洋が、何のためらいもなく、天勝の生年を「明治17年(1884)」と書いているのは、天勝の正しい生年が、同年であることを物語っているのではないか?
・青園謙三郎「奇術師一代-松旭斎天一の生涯」(発行:品川書店(福井)、昭和51年(1976)刊、青園氏は歴史研究家)
松旭斎天一(1853~1912)(図⑥、西洋奇術の父。イギリス人奇術師ジョネスに弟子入りして西洋奇術を学ぶ。明治21年、東京・文楽座で天一一座旗揚げ興行、人間大砲、水芸、剣刺し箱などを演じる。天勝を育て明治34年(1901)に、天二、天勝らと欧米巡業。明治45年6月14日逝去)
![]() <図6>
晩年の天一(58才頃) |
本書は、天洋、久保三郎・満子夫妻((天一の正妻-梅乃夫人の三女)、平岩白風等から入念な聞き取り調査を行っている。
「東京は神田、富松町に中井と呼ぶ質屋があった。主人は中井栄次郎、妻は静といった。明治十七年(1884)に長女が生まれたので「かつ」(注:後の天勝)と名づけた。」・・・
「世界百科事典によると、天勝の生れたのは明治十九年(1886)となっており、その他の資料では明治十八年生まれとなっているのもあるが、松旭斎天洋氏は明治十七年生れだといっている。彼女が昭和十九年(1944)数え年六十一歳で死んだと天洋氏がいうから、逆算すれば明治十七年誕生説が正しい。また彼女が入門したのは数え年十一歳という資料も多いが、天洋氏をはじめ久保満子さんらの関係者は、天勝が天一一座にはいったのは数え年十二歳で福山興行のときであったといっているので、(入門は)明治二十八年が正しいとしなければならない。」
「天勝は天一の死後も、(天一)の家族のために心からつくした。久保三郎、満子(天一の三女)夫妻が勤めの関係で戦前、満洲や朝鮮や中国各地に勤務していたとき、海外興行で天勝が満州や朝鮮などへくると、必ず日程をやりくりして久保さん夫婦を訪れ、まだ小さかった久保さんの娘をだいたり、あやしたりしたこともあったという。」
・展示会「大衆芸能を彩った女性-魔術の女王 松旭斎天勝」
(2016年12月1日~2017年3月25日、国立演芸場1階・演芸資料展示室)
協力:河合勝(奇術史研究家)、(公財)日本奇術協会
監修:瀧口雅仁(芸能史研究家、恵泉女学園大学講師)
展示の天勝の年表の最初に「一八八四(明治17) 東京神田の質屋に生まれる(本名/中井かつ)、一八八六(明治19) ※明治十九年生まれとも言われている」の記述がある。
なお、天勝は昭和19年(1944)11月11日、食道がんで、目黒の天勝寮で死去している。
・大平昌秀著「異端の球譜-「プロ野球元年」の天勝野球団」(サワズ出版、1992年刊) 天勝の夫で一座支配人の野呂辰之助が、天勝一座の宣伝目的と、本人が大の野球好きだったことから、大正10年(1921)に設立した「第二号プロ」野球団-天勝野球団について書かれた本。本邦最初のプロ球団は、大正9年(1920)に創設された大日本東京野球倶楽部(現在の東京読売ジャイアンツ)。 本書の39~40頁に「松旭斎天勝 1886~1944※、大正・昭和期の女流奇術師。東京生れ。本名金澤かつ・・・『コンサイス人名辞典』三省堂/※天勝の生年については二説ある。天勝著『魔術の女王一代記』(後述)でも明治十九年(1886)生れと自称しているが、明治十七年生まれ(1884)が定説である」との記述がある。
・村松梢風著「近代名勝負物語・魔術の女王」
(読売新聞連載、1957年、執筆には天洋が協力、同年単行本発刊・新潮社、村松梢風・1889~1961)
書き出しに「神田松富町に中井質屋があった。主人は中井栄次郎、妻は静といった。明治18年に長女が生れたので勝と名付けた」とある。
(注)青園謙三郎著「松旭斎天一の生涯」の中で、村松梢風の新聞掲載小説「魔術の女王」について、「天洋氏が提供した資料が多いにもかかわらず「だいぶ事実と違っていますね」と天洋氏も誤りを認めている。「魔術の女王」の内容の中で、とくに天一に関する部分はでたらめで信用できないが、伝記小説だからやむを得まい。」と書かれている。