・手品一ツの三十年 色香漂ふ楽屋の処女は戌年です 天勝嬢、遠巻き問答
(名古屋新聞・昭和10年1月5日付・・・樋口保美編「松旭斎天勝興行年表」による)
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図⑦ 映画「魔術の女王」昭和11年(1936) 3月封切り、 演目「エジプトの楽園」で「小箱からの小鳥の出現」を演じる天勝(中央)52才 |
楽屋裏で幕あひの時間に、まづ遠巻きに、遠巻きに、とかく問題になる年齢の問題から。
―天勝さん、あんた亥年(1887)でしたっけけね。
―いいえ、あたし戌年、去年(1934)のえとでさあ。
―へえ、戌年・・・すると四十九か、六十一。いったいどちらで。
―四十九ですわよお。何でも十一の年に師匠天一の経営する天プラ屋※へ奉公して、師匠に見こまれて芸を教へられた。初興行は福山、それから三十八年の舞台生活。
と天勝さんはいふのだ。
(注:天一の家は「天プラ屋」ではない。「天一」の表札を見て天プラ屋と思い込んだだけ)
―東京には七十八になる母がいますよ。あまり人が年を疑ぐるから戸籍謄本を持ち出してやるけど、それでもまだ変な顔をしているんで・・・
で、どうしても四十九なんだとある。なるほど、さういはれて見れば本卦返りの婆さんにしては若すぎるやうだ。・・・
(注:天勝本人が戌年(1886年生れ)と言い張っている。)
新聞死亡記事 「松旭斎天勝」
(毎日新聞・昭和19年11月13日付)
(本名中井かつさん)十一日午後七時四十分胃癌のため、東京都目黒区下目黒一の一一五の自宅で死去、享年五十九(行年58)、葬儀は十七日午後二時から三時まで下谷区入谷町泰徳院で行ふ、天勝は生粋の江戸っ子、十二歳の時松旭斎天一の弟子となったが、忽ち一座の花形となり、明治四十五年には師匠没の一座を主宰、以来五十歳で芸界を引退する昭和十年まで奇術界の女王として君臨、その間千数十種の魔奇術を考案、たびたび海外へも巡業した、引退後は旅館を経営し話題になったが最近ではアパートを経営してゐた
・石川雅章著「松旭斎天勝」(桃源社、1968年刊)
書き出しの「“泣かずの勝”」の項に、「おかつは、明治19年5月21日、神田松富町の質屋、中井栄次郎の長女として生れた」と書かれている。
・戸板康二「松旭斎天勝のサロメ」(「泣きどころ人物誌」文芸春秋、1984年刊の一稿)
「天勝は明治19年に、東京神田松富町の質屋の娘に生れた・・・かつが生れた年に、信州松代で、小林正子という女の子が誕生、これがのちの松井須磨子である。」
・初代松旭斎天勝著「魔術の女王一代記」(かのう書房、1991年刊)
「私(天勝)は、明治19年(1886)の5月21日、神田松富町の質屋中井栄次郎の長女として生まれたのでございます」と書かれている。
この本の著者の天勝本人がそう言っているのだから、生年は明治19年(1886)が間違いないと思うかもしれない。しかし同書のあとがき「解説にかえて・母天勝のこと」で、天勝の養子であった金澤照也氏(注)が次のように書いている。
「本書は、松旭斎天勝一座で長く文芸部長(天勝一座後期、お伽噺演目の構成・演出、宣伝担当、元日本奇術協会相談役-1898~1979)を務められ、「松旭斎天勝」の小説も書かれ、元児童作家でもあった石川雅章氏が、長い文芸部長の生活の中で、苦楽を共有された天勝との毎日をメモしてきた言葉を綴り合せ、昭和54年(1979)の5月にまとめて下さったものと聞かされています。」
(注)金澤直也(旧姓・清水、中井):1932年生まれ。北海道・小樽で天勝直営の割烹・紅緑園の帳場を直也の生母が預かっていた縁から、四人兄弟の次男であった直也が、子供のいない中井カツ(天勝の旧姓、夫の野呂辰之助死去後、元姓の中井に改姓)の養子となり、有楽町1丁目の旅館水明館(天勝所有)の帳場を預かることになった生母と一緒に1936年に上京、一緒に住むこととなった。天勝が1941年、東京外国語学校教授の金澤一郎と結婚、姓が金澤に変わった。直也は2005年12月16日死去(73才、戒名・清徳院照堂芝園居士)、墓所は天勝(1944年11月11日・食道がんで死去、戒名・清操院 釈 妙勝大姉)、金澤一郎(1945年9月23日死去、戒名・金剛院鷲嶺一道居士)と同じく南馬込の曹洞宗・慈眼山萬福寺にある。
・「七十年の歩み」(社団法人・日本奇術協会創立70周年記念誌。発行監修・同協会、2006年刊、発行部数・限定600部)
「松旭斎天勝は、明治19年(1886)5月21日に、東京は神田松富町の質商・中井英次郎の長女として生れる」(同書32頁)
しかし同書の日本奇術協会(JPMA)年表には「昭和19年11月11日 初代松旭斎天勝 逝去(六十歳)日本奇術協会初代名誉会長」とあり、異なった年令が記されている。
・松山光伸著「実証・マジック開国史(9)渡米の決断と成果」
(奇術雑誌「ザ・マジック」74号、単行本・2007年東京堂出版刊、松山光伸1947~2022、日本奇術史研究家、筆者(土屋)と慶応義塾大学奇術愛好会の同期)
松山光伸氏が、明治34年(1901)7月に、天一一座米国・英仏公演への出国時の「旅券下付記録」(図⑧)を発見、それに天勝の年令が「十五年二カ月」と書かれていると指摘している。
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旅券下付記録「中井かつ(生年)十五年二カ月」の記載 |
「発行番号 二三五一五 中井かつ “栄次郎二女” 深川富岡門前町本町十二番地(年令)十五年二カ月、(目的)英米独仏 手術研究 (申請日)(明治34年)六月廿日」 (天勝の右隣りに「「発行番号 二三五一四 中井わか “栄二郎長女” 深川富岡門前町本町十二番地(年令)廿年十一カ月、(目的)英米独仏 手術研究 (申請日)(明治34年)六月廿日」とあり、天勝に「わか」という5才年上の姉があり、天勝は実は次女だったことがわかる。)
(注)「旅券下付記録に記された個人情報の信頼度」
「戦前期における旅券申請手続きについては、「海外旅券規則」(1878年制定)および「外国旅券規則」(1900年制定、29年改正/内閣官報局「法令全書」1900年発行)に規定がある。
前者においては、住所や年齢を記載した旅券申請書に「戸長」および「府知事・県令」が証明印を押印することになっており、また後者においては旅券申請の際に必要書類に戸籍謄本を添付することが定められていた。従って、「海外旅券規則」制定以後の旅券記載情報は信頼性が高いことになる。
(松山氏の発表を、奇術史研究家の森下洋平氏が、内閣官報局「法令全書」1900年発行により再確認している)
しかし松山氏が発見した「旅券下付記録」の中に、天一一座に同道した「服部勝蔵(天一の養子、芸名・天二1877~1921)」の記録部分が「(年令)四十八年三カ月」と、養父「服部松旭(天一)」と同じであること(図⑨)に、同氏が気づく。
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旅券下付記録「服部勝蔵(生年)四十八年五カ月」の誤記 |
「これは旅券の控え(下付記録)をとる担当者が、勝蔵の右に書かれた松旭の記録と同一と思い込み、そのまま書き写したものと考えられる。「旅券下付」の記録は、旅券そのものではなく、発行した旅券の内容を控えた記録簿(台帳)であり、一次資料といえども、完全に信頼できるものではない」と述懐している(ネット上の同氏掲載「マジックラビリンス」-手品史研究の落とし穴)。
・「歴史読本」4月号-明治女傑伝135頁・皇学館大学教授・川添 裕著「松旭斎天勝」(新人物往来社、2008年刊)
「松旭斎天勝が生れたのは、明治17年(1884)5月21日、東京は神田松富町で質商をいとなむ中井栄次郎の長女として誕生した。」
(注:この生年の記述を、川添氏は松山氏の発表(上記)後に、次稿により明治19年に訂正している)
・「彷書月刊」2月号(特集・天勝)-20頁・川添 裕著「天勝の生涯」(彷徨舎・2009年刊)
「天勝の生年について、これまで諸書や各記事に見られるものを総合すると、明治19年、明治17年、ごくわずかだが明治18年と、それぞれ多数あって・・・」と書き出し、「しかし、奇術研究家の松山光伸氏からの教授(上記記事の「旅券下付記録」)により、明治19年生れが立証された」と述べている。
列挙した上記の記述で明らかなのは、天勝本人は世間に対して新聞※等で、一部の例外(昭和9年3月19日付・読売新聞の記事)を除き、一貫して明治19年(1886)生れと言い通している。さらに天勝一座の後期に入座し、その自伝の実際の書き手であった石川雅章も、天勝の意に沿うように、常に同年生れと書いている。これらを元に、著述家の多くが明治19年生れと記載している(村松梢風は明治18年と記述)。
(※戦前の芸能関係の新聞記事は、当てにならない記事が多かった)
明治19年説の最も信頼できる資料は、松山光伸氏が発見した明治34年6月発の「旅券下付(かふ)記録」である。確かに当時の年令は「十五年二カ月」(明治19年生れ)と記載されている。これが戸籍謄本を元にして年令を記載したのであれば反論の余地はない。
「旅券下付記録」にあり、俳優鑑札(※)にも「明治19年」と記されているので、天勝が「私は明治19年生れ」と言い続けても、当然と言えるだろう。
※俳優税(俳優として営業することに課せられた税)を納めると、俳優としてその府県で営業するための免許に相当する「俳優鑑札」が、「俳優組合」が設立された明治22年(1889)から発行された。天勝の「俳優鑑札」(当局からの芸人許可証)に書かれた生年月日が5月21日ではなく「明治19年5月13日」であった理由は不明である。本当の生れた日は5月13日で、役所に届けたのが5月21日だったのかも知れない。しかし、この事実から、「俳優鑑札」に記された生年月日は、戸籍謄本を元にしたものではなく、芸人本人の口頭申告であった可能性がある。
しかし、はたしてそうであろうか?そもそも天一が旅券を申請した時、その手続きをしたのは大人であり、15歳あるいは17歳だった天勝ではない。あるいは実年令を2才若くしたほうが、海外渡航の際に子供扱いとなり、渡航費が安くなるという目論見はなかったのか?未成年の天勝の場合、本当に戸籍謄本の呈示ではなく、あるいは口頭申告で作成された「俳優鑑札」などの、別の資料をもとにした旅券申請だったのではないか?
女の芸人が、実年令のサバを読むことはよくあった。少しでも若く見せるための計算があったからである。しかし現時点で、この「旅券下付記録」申請当時の、天勝の年令「十五年二カ月」(明治19年生れ)をくつがえす確かな反証はない。
一番の解決策は天勝の戸籍謄本による検証である。遺骨を埋葬した菩提寺(天勝の場合は、中井家の台東区竜泉・西徳寺と、分骨のある大田区南馬込・萬福寺)にある墓石には、逝去した年月日と戒名は彫られているが、生年月日は書かれていない。特に戸籍が東京にあった場合、昭和20年5月26日の戦災(東京大空襲)による港区の例のように、区役所によっては、戦前の除籍簿、あるいは見出帳が焼失し、調査できないケースも多い(特に下町)。また、昨今は戸籍法の厳格化により直系親族以外は司法書士や弁護士でも、特別な理由がなければ、他人の戸籍謄本を取得することは出来なくなっている。
さて、明治17年(1884)生れとしている記述例を見てみよう。天勝との浅からぬ縁で結ばれた私の父(鈴木四郎)、天勝と7年間の長きにわたり一座を共にした天洋、さらに天洋一座から天勝一座に移り、米国巡業に同道した天海、そして演芸担当の新聞記者として天勝を度々取材した平岩白風ら、天勝の身近にいた人たち(石川雅章を除く)は、いずれも、天勝が自称し世間一般にも信じられていた天勝生年・明治19年説(1886)ではなく、等しく明治17年(1887)生れと述べている(平岩は「申(さる)年生れ」とまで書いている)。
特に青園著「松旭斎天一の生涯」は、天洋、久保三郎・満子夫妻(天一の正妻-梅乃夫人の三女)、平岩白風等から詳細な聞き取り調査を行っており、一番信頼出来る著作である。
私は個人的には、若い頃天勝のそばにいた父が書き残した、明治17年説を支持したい。
(土屋理義記・2025年5月28日現在)