土屋理義

マジックグッズ・コレクション
第25回

暗黒妙技の不思議

<写真1>
緒方知三郎


 TAMC(東京アマチュア・マジシャンズクラブ)の創立者の一人に緒方知三郎(1883-1973)がいます。<写真1>江戸末期に適塾を開いた蘭学者で医者でもあった緒方洪庵の孫で、病理学で文化勲章を受章した大変な知識人です。国立劇場演芸資料館には、同氏が永年にわたって収集した、江戸中期から昭和期にかけ出版された奇術書・番付・ポスターなど267点が、「緒方奇術文庫」として所蔵されています。

 その中に、「暗黒妙技の不思議」という、わずか8頁の孔版印刷による小本(22x15センチ)があります。<写真2><写真3>これは有名なマジックの発明家であったオーストリア人ホフツィンザー(1806-75)<写真4>の研究者の、同国人オットカー・フィッシャー(1873-1940)<写真5>が出版した”Das Wunderbuch der Zauberkunst”(「奇術怪書」1929年刊)<写真6>の一章“Wunder der schwarzen Kunst”(暗黒妙技の不思議)を、緒方が全訳したもので、昭和15年(1940)に、TAMC会員に限定配布した私家版です。

<写真2>「暗黒妙技の不思議」の表紙


<写真3>同書の記事の一部
(クリックすると拡大します)


<写真4>
39才のホフツィンザー
<写真5>
フィッシャー


<写真6-1>
「奇術怪書」(1929年刊)のドイツ語原書の表紙
<写真6-2>
同書本文の1頁目


 実は筆者がこの本の存在に気が付いたのは、オーストリアの有名なマジシャン-マジック・クリスチャン氏(Magic Christian)から、TAMCに直接照会があったからです。同氏は”NON PLUS ULTRA”というタイトルで、ホフツィンザーの生涯や発明したマジックを紹介した大作の執筆者であり、その一環としてTAMCのホームページ内にある同会員著作一覧の中から、ホフツィンザーにゆかりのある緒方の「暗黒妙技の不思議」を発見して、コピーを入手できないか問い合わせをしてきたのです。
 この小本は昭和15年の発行、しかも当時わずか50名程度のTAMC会員に限定で配られた稀少本で、現在の会員で所持している人がわかりませんでした。しかしTAMCの企画部長を永年務めた故高木重朗氏が所有していて、それを氣賀康夫氏が譲り受けていたため、幸運にもコピーを入手することが出来ました。

 それでは何故、緒方はフィッシャーの「奇術怪書」(注:原書をそのまま訳すと「マジックアクトの不思議」)の一章(原書6頁)を翻訳したのでしょう。これは推測ですが、緒方が昭和7年(1932)10月から翌8年4月まで欧米各国に留学した際に、フィッシャーが会長を務めていたウィーン・マジッククラブの例会に出席、フィッシャーから自著をもらい、内容に興味を示したからなのではないでしょうか?

<写真7>
ウィーン・マジッククラブから
東京奇術愛好会宛て友好団体認可の文書

 TAMC会報第1号(1935年1月発行)には、緒方が1933年2月14日にウィーン・マジッククラブ(MKW)の特別例会に出席、その後、東京奇術研究会(TAMCの前身)が、MKWの友好団体と認めるというディプロマを受け取った旨が記載されています。(TAMCの正式創立日は1933年9月27日付)<写真7>

 前置きが長くなりました。小本の内容は「ブラックアート」の歴史とエピソードについてです。<写真8>それは1885年のドイツでのお話です。公演の劇中での牢獄内部を、黒いビロードで覆ったため、そこに侵入しようとした黒人役者の顔が見えなくなり、偶然にも、ただ開かれた口の白い歯だけが、空中をさまよう場面となったのを、舞台監督のMax Auzinger(1839-1928)<写真9>が発見します。

<写真8-1>
原書中の挿絵-(術者とテーブルの出現)
<写真8-2>
原書中の挿絵-(踊る骸骨)


<写真9>Ben Ali Beyの舞台姿

 これにヒントを得たAuzingerは、次の公演でBen Ali Beyという名の奇術師として登場します。実の娘のおもちゃ部屋を模した内部が、黒いビロードで覆われた暗黒の小部屋を舞台上に作り、おもちゃの天女が空中に舞う姿を演出して、大成功を収めたのです。そしてこの「ブラックアート」は次々と改良を重ねられ、「印度と埃及(エジプト)の不思議」や「スフィンクス」など、題名や内容を変えながら大評判を取っていくのです。

 さらに「磁力のある絵」では、黒板に白いチョークで描いた骸骨が、音楽に合わせて踊り出し、その半分を黒板消しで消し去ると、骸骨は残りの半分だけで踊り出す、というユーモア溢れる演技でした。
 また、一枚の絵の上に描かれた毛虫が、さなぎになり、ついには綺麗な蝶に扮した美人に変わってしまう「東洋の神々による美女の創造」という演目や、四色のシャボン玉を扇子であおいであちらこちらに飛ばせた後に、それが一つの大きなピラミッドになるという演出も好評でした。

   この「ブラックアート(日本では黒技あるいはモルモットと称されていた)」の種(ネタ)は、視覚の錯覚によるもので、黒いビロードで壁を覆った小部屋や真っ暗な舞台の上で、黒服の助手の助けをかりて、物体を同じ黒いビロードで覆ったり、取り除いたりすることにより、まさに「暗黒妙技の不思議」な現象を観客に見せていたのです。

   この小本の終わりでは、19世紀の前半に、すでに多くの奇術師が、「馬の消失」というインチキ臭いマジックを演じていた、と記しています。黒ビロードを貼りつめた舞台に白馬を立たせ、術者は助手と共に大きな白布で馬を覆った後に白布を取り去ると、舞台上の白馬が消え去るという演技です。これは白布の下にそれと同じ大きさの黒ビロードを重ねて2枚一緒に馬の上にかぶせ、すぐに白布だけを取り除くと、白馬が消失したように見えるというわけです。しかしBen Ali Beyは、もともとは舞台監督であり奇術師ではなかったこと、そしてこのマジックを舞台上で初めて、大がかりに演じて成功を収めたことから、「ブラックアート」の発明者と云われています。

   著者の緒方は、この小本の追記として「我國の奇術史中に、元禄年間(十八世紀の始め)塩売長次郎なるものが、呑馬術(どんばじゅつ)を三都で興行して異常の人気を呼んだといふ記事が見出される。そして馬の前脚を両手で持ってその頭から呑み込みかけてゐる絵も遺(のこ)ってゐる。この奇術の種も、或いは上述の如きものであったかも知れない。」と書いています。

(注)本稿のドイツ語原書の部分は、オーストリアのホフツィンザーの研究家で、プロマ ジシャンのMagic Christian氏から多大なご協力をいただきました。ここに感謝申し上げます。

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