昭和の初め、北の都・札幌に、勇崎天暁(ゆうざきてんぎょう、本名・正次-1909~1971)という名の職業奇術師<写真1>がいたことを知る人は少ないと思います。
若い頃は弁士をしたり絵を描いていましたが、その後5年間独学で奇術を勉強、昭和9年(1934)には自ら勇崎天暁と名乗り仮面を付けて登場、札幌に天暁魔奇術研究所を設立します。
昭和9年8月3日付の報知新聞北海道版<写真2>に
昭和7年(1932)に三越札幌店が開店し、天洋(現在のテンヨー)の奇術材料が販売されていますので、あるいはこれに触発されたのかも知れません。
札幌(今井)以外にも帯広(藤丸)、釧路(鶴屋)、函館(今井函館店)など、北海道内の主要都市の百貨店で自ら実演販売を行いました。
昭和10年(1935)6月のJOIK(NHKラジオ札幌中央放送局)開局7周年記念子供大会(札幌市公会堂で開催)には、童謡、童話劇、舞踊などと共に、「奇術」の演目で天暁が出演しています。
天暁は奇術師としてもスライハンド・マジックの名手でした。
同年(1935)10月20日付けの十勝毎日新聞には「魔術師天暁・帯広へ-藤丸(百貨店)四階で毎日神技を公開」と紹介されています<写真3>。
記事中に「世界の魔術王ダンテ(注:1934年9月~10月に来日し、大阪、東京で公演)に一ヶ月半ばかりついたのだが、ダンテ先生も『頭ぢや君に負けることもあるまいが、君のその手だけは欲しい』と言われた」と新聞記者に発言しています。しかし実際には天暁がダンテに師事したり一座を手伝ったわけではなく、楽屋を訪れてカードマジックを見せたことを、宣伝用に大げさに言ったものと思われます。
<写真4>のカタログには「天暁魔奇術材料定価表◎第一號◎」と書かれていますので、昭和9年(1934)頃のカタログと思われます。
合計73種の奇術が掲載されています。「踊るマッチ」、「銀貨製造器」などの小品が中心で、大仕掛け物は「白紙と時計」、「銀筒と煙による怪奇水の出現」程度でした。
仮面を付けてポーズをとる天暁が表紙を飾っている「今井呉服店玩具部」のカタログ<写真6>では、「紙幣印刷器」や「魔法の小箱(せいろう)」、「ライストン(ライスボール)」などの高価な道具がリストされ、「空中人間浮揚」、「人間大砲」など大魔術も請け負うかのように書かれています。
その後も、天暁は多くの奇術材料カタログ<写真7>を出しています。釧路の鶴屋呉服店玩具部のカタログでは、110品目が掲載され、「支那の金輪(チャイナリング)」、「千里眼の魔函」などの高額品が売られています。
やがて支那事変や太平洋戦争が始まると、奇術材料の包装紙はカラー刷りになり「皇軍慰問陣中演芸用具」の文字が印刷されるようになります。
販路拡張から、道内の有名観光地の旅館の売店でも、天暁の奇術材料を置いてもらい委託販売にも努めました<写真9>。
何と戦時中の昭和20年1月に、奇術材料の「定価改正」の通知<写真10>を、熱心な購入者に送っています。北都札幌は、幸い空襲がなかったため、戦後もいち早く昭和20年(1945)9月に、「天暁奇術愛好家協会」を立ち上げて会員を募集(注)、会員に孔版による会報の「奇術」<写真11>を自らガリ切りをして発行しました。天暁は若い頃、画家を目指したこともあり、絵入りのガリ切りの技術も一流でした。
戦後の急速な物価上昇もあり、翌21年9月には同協会会報として「奇術材料カタログ」の大改定<写真12>を出しています。1934年のカタログ<写真4>に比べ、12年の間に、例えば「魔の容器」の価格が、15銭から20倍の3円に値上げされています。
(注)昭和21年末で200名近い会員がいた。主に道内が中心だが、他に新潟や横浜の入会者もいたことが分かっている。
さらに「奇術講習会」や「奇術演技研究会」<写真13>を精力的に開催、奇術材料の販売と講習・指導を行いました。
しかし国内での奇術材料の販売は、東京の天洋と日本奇術連盟(JMA)が主流であり、国民の大部分が生活するのがやっとであった戦後間もない世の中では、趣味としての奇術材料が多く売れる状況ではありませんでした。
全国的に無名で、主に北海道内での販売であった天暁の製品は次第に売上が減少、昭和27年(1952)には販売を取り止めました。天暁はその後もスライハンドが得意な奇術師として道内で活躍し、晩年は子息の建夫氏をアシスタントに舞台に立ちました。
これに取って代わるかたちで、天暁の通信販売を担当していた岡本健司氏(後の天地創一)が独立を決意、札幌に天地奇術社を開業します。そして天暁と異なり全国展開を目指して、「天地奇術」の名で昭和27年から東京に会社を移し、銀座松坂屋を皮切りに川崎、横浜、大阪、神戸、博多の各デパートで、奇術材料の販売を始めます。当初はその多くが天暁製品のコピーでしたが、天暁は天地に抗議することも、ロイヤリティを求めることもありませんでした。天地の奇術製品は昭和50年頃まで売られることになります。
天洋の奇術材料の販売が昭和6年(1931)から始まり、翌年からは三越の地方店で全国販売が始まったこと。日本奇術連盟(JMA)の「奇術戯報(後の奇術界報)」が発刊され、同社の奇術材料が販売されたのが昭和12年であったことを考えると、天暁が昭和9年(1934)から、北海道内だけとは言え、天洋に引けをとらない製品数を製造・販売したことは驚くべきことです。奇術製品の販売元としての天暁の存在は、もっと評価しなおされてよいでしょう。
(注)シガレットマジックで有名だった松旭斎天暁師は、昭和16年夏に北海道を巡業していた「国際天勝一座」(座長・松旭斎天翠)に入座して、初めて奇術の舞台に立ちました。戦後に独立し当初は松旭斎天誠と名乗り、昭和24年に天暁と改名しています(『奇術研究』16号、平岩白風「現代日本の奇術師素描」)。勇崎は昭和9年に「天暁」を名乗っていますので、「天暁」の芸名を使用したのは勇崎がはるかに前のことです。