戦前から戦後にかけて、アメリカで最も有名な日本人マジシャンといえば、天海(1889~1972)をおいて他にはいません。1925年初め、日本よりもはるかに進んでいた米国のマジックに衝撃を受けた天海は、米国興行中の松旭斎天勝一座と別れます。そして妻のおきぬ(1895~1980)と共に、米国内を巡業しながら、血のにじむような努力を重ねて腕を磨き、やがて大きな名声を得るようになりました。
しかしいくら名人でも、病には勝てません。1953年6月、シカゴで狭心症を発病した天海(当時63才)は、医者のすすめもあり、翌年の5月に気候のよいロスアンゼルスに移りました。療養生活のため一軒家を借り、4年間にわたり静かな生活を続けることになります。やがて病状も少しずつ回復して、大勢の見舞客にも応対出来るようになりました。
そこでジェラルド・コスキー、レイモンド・ビビーと天海の三人が中心になって、ラウンド・テーブルを始めました。円いテーブルを囲んで、マジシャンたちが互いに見せたり研究したり、意見を述べ合う「マジシャンの集まり」のことです。舞台に上がらなくなった天海にとって、このラウンド・テーブルに通う楽しみが、5年にわたる闘病生活の心の支えにもなりました。ダイ・バーノンが天海にカードマジックを見せたように、天海も彼に有名な「天海パーム」を披露したことでしょう。
ダイ・バーノンのカードマジックに見入る天海 (「THE VERNON CHRONICLES」より転載) |
おきぬはおきぬで、当時、婦人だけで組織されたアマチュア・マジシャンズクラブ「Hollywood・MAGIGALS(ハリウッド・マジガルズ)」(会員30数人)などの、ロスアンゼルスに3つほどあった女性マジシャンだけの会(夫君がマジシャンという中年以上の集まり。全米に78の組織があった)に参加、天海のマジッククラブの会合と同じビルの別の部屋で、お互いにマジックを見せ合い、教え合う機会をもちました。おきぬは天海のアシスタントというだけではなく、「紙リボンの復元」「袋玉子」「お化けハンカチ」などのマジックも得意でしたので、そういう会でも活躍できたのでしょう。
以下のものは、その時代の1955年3月に、天海とおきぬが、
親交のあったプロ・マジシャンのダニー・ディウ(Danny Dew、1906~1996 -晩年はアリゾナ州フェニックスで活躍)夫妻に贈ったものです。
下は「TENKAI MASTER OF MAGIC」と書かれた天海のプロモーション・パンフレットで、ジャンボカード(左上)、コイン(左下)、ミリオン・ウォッチ(中央)、マンモスハンカチの取り出し(右上)、そしてソファーにジャンボカードを並べて、着物姿で微笑むおきぬ(右下)が載っています。
「TENKAI MASTER OF MAGIC」と書かれたプロモーション・パンフレット
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マンモスハンカチの取り出し(拡大)
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パンフレットの右上の写真は、天海とおきぬ、養女の世子(ときこ)が、1951年6月のシアトル貿易博覧会における日本貿易フェア出演時に撮られたもので、娘の世子(この時はロスの高校生)と舞台を共にしたのは、これが最初で最後でした。天海に言わせるとその時に、世子は舞台には向いていないと分かったのだそうです(その後、世子は1957年に米国人と結婚)。このマンモスハンカチは、演技の最後に吊り上げて引き出す染め抜きのカラフルな、7m30㎝x7m60㎝の巨大なものでした。
パンフレットの裏面には、有名な大きなボンボン時計を持った写真や、新聞に掲載された天海の演技を称賛する記事と、出演した有名劇場が列記されています。
プロモーション・パンフレットの裏面
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次は「To Danny Dew、Tenkai 、駄仁王道さん江 石田天海 3/15/55」とサインの入った、和服姿でシガレットの取り出しを演じる天海のブロマイドです。
「駄仁王道」とは、Danny Dewを漢字に読み変えたもので、天海のサービス精神がうかがえます。
シガレットは天海が最も得意とした奇術の一つで、パンフレットの中央の「ミリオン・ウォッチ」と組み合わせた「シガレットと時計」は、天海の舞台奇術の中で一番評判となったオリジナルマジックでした。
和服姿でシガレットの取り出しを演じる天海
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その演技は次のようなものでした。「火のついたシガレットを空中からつかみ出して、その煙の中から懐中時計を取り出す。次はシガレット、次は時計と交互に連続して取り出すのだが、9分間にシガレット36本、時計が48個。終わったと思わせた瞬間、大型のボンボン時計を2個取り出してみせる。」(石田天海「奇術五十年」)
次は「To Danny Dew、Okinu 3/15/55」とサインの入った、半そでの洋装姿で「木の葉カード」(インターロッキング・プロダクション)を演じるおきぬです。おきぬは元々、天海と共に天洋一座に入り(その時の芸名は絹子)、夫婦で天勝一座に移ってからは(芸名・信子)単独で小奇術を演ずることもありましたので、夫の天海から教わったとしても、奇術の腕前は確かなものだったのです。
木の葉カードを演じるおきぬ
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下は「ミセス メルーバア ディウ To Mrs. Melba Dew、From Okinu Ishida 1953(1955の間違いか?) Mar 15th 石田絹子」と書かれた、
パンフレットの右下と同様、ジャンボカードを並べて見せるおきぬです。
ディウ夫人(1911~2012)は、夫と共に舞台に立っていましたので、同様の境遇だったおきぬは、天海共々ディウ夫妻に親しみを持っていたのでしょう。
ジャンボカードを並べて微笑むおきぬ
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そうこうするうち1957年に入り、親しくしていた緒方知三郎(東京アマチュア・マジシャンズクラブ(TAMC)会長、病理学者、文化勲章受章者)から、日本に帰って治療するようにとの、温情あふれる手紙が届きました。体を壊してからは得意の「シガレットと時計」の芸で生計を立てることは出来ません。生まれ故郷の日本の地が恋しくなり、天海夫妻は、意を決して日本に帰ることにしました。アメリカを離れる前に、400名におよぶマジック仲間が出席して、ハリウッドでサヨナラ・パーティーを開いてくれ、その場でSAM(アメリカ奇術家協会)の終身名誉会員に推挙してくれました。
そして33年にわたるアメリカ生活に終止符を打ち、1958年3月14日に祖国日本へ旅立ち、ハワイに1ヶ月滞在後、4月21日に横浜港に到着したのです。
天海が送ったクリスマスカード(表)
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天海が送ったクリスマスカード(裏)
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上は日本に帰ってから11年経った、1969年12月にディウ夫妻に送ったと思われるクリスマスカードです。それには「やめられぬ 八十路こえて 手品の道、石田天海、Tenkai & Okinu」と日本語で書かれています。この言葉の中に、天海の生涯絶えることのなかった、奇術への情熱を感じることが出来ます。