「魔術の女王」と謳われた初代松旭斎天勝(1884~1944)が、師匠の天一一座の座員として4年近くのアメリカ・ヨーロッパ巡業から帰国したのは明治34年(1905)5月のことです。9月の帰朝公演(東京・歌舞伎座)は「万国第一等、最新西洋大魔術、欧米新帰朝披露特別大興行-松旭斎天一・天勝一座」と銘打って、連日大入り満員の盛況でした。
時に天勝21才、天一52才、天勝は観客を魅了してやまないその美貌と演技で、師匠との2枚看板になっていたのです(注:「松旭斎」とは、天一の本名が服部松旭(しょうぎょく)であったため、奇術の流派の名前にしたもの。
従って正しくは「しょうぎょくさい」と言うべきだが、語呂の良い「しょうきょくさい」とした。この話は一高・東大の学生時代に天勝の大ファンで、楽屋や自宅-浅草区福井町2-3-を自由に出入りしていた父の鈴木(旧姓)四郎から聞いたもの)。
図の彩色絵葉書3枚は、フランス王朝時代風の洋装を身にまとった帰朝まもない天勝<写真1>です。コーンからの花(造花)の取り出し<写真2>や、それを受け取る女の子<写真3>が写っていて、絵葉書の下辺には「Shokyokusai Tenkatsu. 勝天斎旭松(右書き)」と印刷されています。
<写真2>
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<写真3>
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帰朝公演のプログラムの中に「羽衣ダンス 天勝」<写真4、5>というのが載っています。
紗(しゃ)の薄絹の「羽衣」にスパンコールを巧みにあしらい、これに回転フィルターを使った七色の照明を浴びせて、天勝に踊らせるという趣向です。もともとは洋行前からの出し物の一つで、
イタリア曲馬団の人気女優の西洋ダンスからヒントを得たものでした。
新たな「羽衣ダンス」は天勝が欧米巡業で習得したダンスによって、さらに磨きをかけたものです。
体にぴったりの薄い肌着を付けているのですが、それがセミ・ヌードのように見えることから、当時としては精一杯の若い天勝のエロティシズムとなり<写真6>、観客の爆発的な人気を呼びました。
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<写真6> |
天一一座の解散後に、天勝一座を旗揚げした最初のそして最大の演目が、大正4年(1915)7月から東京・有楽座で始まった「魔術応用余興-サロメ」<写真7~9>でした。王と王妃がいつの間にか玉座に着いていたり、ハンカチを振ると酒や果物、菓子が卓上に現れたり、サロメが自分に毒づいた予言者ヨカナーンを殺すと、その生首がかがり火をたいた鉢の中から現れ、カッ!と両眼を見開いて「すされ、バビロンの娘よ!」と怒鳴りつけるという魔術劇です。生首を載せる三脚のテーブルが鏡仕掛けになっていて、その鏡面に両袖の黒布が反射して、テーブルの後ろに隠れているヨカナーンの生首だけテーブルの上に置かれているように見えていて(いわゆる「スフィンクス」)、最後は張り子作りの生首とすり替えるトリックでした。
<写真7> |
<写真8> |
なにしろ妖艶無比の天勝が、女盛り(時に天勝31才)の半裸体を見せるというので、初日を開けると押すな押すなの大評判となったのです。その後、名古屋(御園座)、金沢(第一福助座)、大阪(浪花座)、京都(南座)から、はては朝鮮の京城まで、サロメの公演が続きました。下はサロメ上演の際に観客に配られた小冊子の抜粋です。
日本で私製絵葉書の使用が認められたのは明治33年(1900)からで、明治37年(1904)頃には彩色木版による市販絵葉書が多数発行され流行しました。
天一・天勝一座もこれに目をつけ、「洋行帰り」の宣伝のために作成したのでしょう。ここに掲載した絵葉書のほとんどが裏面に「GOTO KOBE(神戸・後藤製)」と記されています。
明治39年(1906)には、後見だった天松(後の天洋)がスライハンド(ミジンカード・・・現在のミリオンカード)で舞台に立ちました。天松は舞台から観客に広告入りのカードを投げるのが得意で、そのカードを拾った観客に、カードと引き換えに天一と天勝の絵葉書(ブロマイド)を贈呈し、それが大変な人気を呼んだとのことです。