戦後まもない昭和22年(1947)春、広子はアーニー・パイル劇場の長期契約の専属になります。アーニー・パイルとは沖縄戦で戦死した米軍従軍記者の名前に因んだもので、異文化の国に駐留する兵士たちの慰問を目的として、GHQ(連合軍総司令部)が戦前の東京宝塚劇場を接収し、昭和20年のクリスマスイブ(12月24日)から開館した劇場です。オーディションは14分30秒、その時間で大道具のマジックを見せるように指示があり、天勝一座で得意にしていた「人造人間」(人形が本物の人間に変わる)や「ガラス箱」(四方が透明な空のガラス箱の中に人が出現)、「人体浮揚」などをぴたりと時間通りに演じ、審査員の喝采を浴びて合格となりました。その時、天洋がスペシャルA,広子がスペシャルBで、GHQからライセンス(査定証)を受領、米軍のキャンプでの出演も出来るようになりました。広子は一緒に上演される一流外国人の様々な新しいショーの形態を勉強し、芸に磨きをかけることになるのです。
英会話も独学で覚え、米軍キャンプに行った時にはクラブで米国人と物怖じせずに会話ができるようになり、避暑地軽井沢のホテルのクラブでは発音が日本人ばなれしていると米国人から言われたそうです。その後は日劇ミュージックホールや大阪梅田のミュージックホールに交互に出演、18年間にわたり各地の鉄道家族慰問公演も続けています。
昭和26年(1951)には松旭斎広子一座(座員10名)を再旗揚げし、先駆的な大道具を中心に、踊りやコミックも入れたマジックショーの興行を始めて人気を博し、NHKを中心に始まったテレビ放送にもたびたび出演しました。しかし次第に座員が減り広子も舞台で倒れるなどして一座は長続きしませんでした。
「松旭斎広子一行・・・華麗なるマジックショウ」 |
昭和34年(1959)夏には当時のご結婚間もない皇太子殿下ご夫妻(今上天皇)ご出席の同窓会で、ロープ抜け奇術を披露、殿下から「タネを教えてくださいますか?」と聞かれ「美智子様に教えていただいてはいかがですか」と返事をして、美智子妃殿下をとても嬉しがらせたということです。
しばらくの後、広子は再び一座の復興を決意、昭和43年(1968)に「日本魔術団」を結成しその主幹となり日劇に出演します。昭和45年(1970)には大阪の万国博覧会会場で公演、同年12月には台湾公演を行っています。
「松旭斎広子&日本魔術団」 |
「人造人間」を演じる台湾(台中)のちらし(1970) |
昭和47年(1972)10月には有楽町のよみうりホールで芸術祭参加作品「日本の奇術」を公演しました。スタッフは夫の山崎金之助が原案構成を行い、奇術考証-平岩白風、奇術指導の水芸-二代目天勝、胡蝶-天洋という豪華メンバー、出し物は前半が「日本の四季」と称して「落花の舞」「のべ」「散り桜」「夫婦胡蝶」(広子の娘・正恵の演技)「夕涼み」「提灯」「さらし」「傘」「慢幕」「御所車」(初代天勝作、御所車の御簾(みす)のむこうにいる美人が消え、最後は御所車も消えてしまう)、「水芸」(正恵他)とまさに和妻のオンパレード、後半は「広子オンステージ」として西洋マジックを「スライハンドマジック」から「三本の剣」「ロケット」「空中美人」「人造人間」「不思議なリンゴ(札焼き)」「秘密のダイヤ・ルーム」など、12演目を一気に上演しています。この舞台で正恵は初めて胡蝶の舞と水芸を演じました。この公演により翌年(1973)、栄えある文化庁・芸術祭優秀賞を受賞したのです。この頃が「日本魔術団」の全盛時代でした。
芸術祭参加作品「日本の奇術」のちらし(1972)
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しかし好事魔多し。昭和52年(1977)、広子にとってなくてはならない名後見の夫、山崎金之助が亡くなります。
金之助が亡くなったことは広子のその後に大きな影響を与えます。
金之助は後見以外にも演技の助言や舞台の構成を行いプロデュースもやる、言うならば初代天勝における夫でありマネージャーだった野呂辰之助のような存在だったのでしょう。
やがて夫亡き後の落胆と「日本魔術団」の退潮に伴い一座は解散します。
しかしその間にも永年にわたり老人施設や身障者施設で奇術の無料出演を行い、昭和57年(1982)には黄綬褒章を受章しています。
昭和60年(1985)の日本奇術協会創立50周年記念公演(浅草公会堂)では、協会7代目会長として自らが鳩掬(すく)い、娘の正恵が水芸を演じて大成功させています。平成5年(1993)3月には、7年振りの舞台で国立劇場演芸場「マジックフェスティバル」に出演し天勝形見の道具を用いた「鳩掬い」や、天勝芸であった「人造人間」を披露しました。
翌年(1994)9月15日の第36回テンヨー手品フェスティバルでは80才で出演しトリをつとめました。まず、娘の正恵が和服姿で人形の頭にかつらを置き体に打ち掛けをかけると、突然人間になって動き出す「人造人間」と「胡蝶の舞」を演じて観客をうならせます。次に広子が登場し両手からカードが現れる「木の葉カード」を演じた後に「札焼き」を披露。「札焼き」は石田天海から教わり広子自身が手法に工夫を加えたアクトで、ほとんどの振り付けは天海と同じです。紙に包んで燃やしたはずの札が、客が指定したリンゴの中から出てくる素晴らしい名人芸でした。さらに「鳩すくい」や天洋ゆずりのトリック、イリュージョンを演じて大喝采を浴びました。公演後に感激のあまり多くの人が広子の楽屋をおとずれたといいます。
テンヨーフェスティバルで「札焼き」を演じる(1994) |
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「札焼き」に使用していたニッパー(札を焼く時に使用)などの小道具 |
その後も平成8年(1996)に奇術雑誌「ワンツースリー」の表紙を飾り、平成11年(1999)6月には新橋演舞場・名取裕子主演の「花の天勝」で奇術指導を行い、娘の正恵も劇中でマジックを演じています。
奇術雑誌「ワンツースリー」(1996)
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「花の天勝」プログラムに載った正恵(1999) |
広子はスライハンドもこなしましたが、やはり演目の中心は観客受けのする大道具仕掛けの奇術(魔術)でした。代表芸には「人造人間」(前述)、「ガラス箱」四方透明体の中からの美女の出現(初代天勝は女性1人を出したが、広子は男性1人をガラス箱に入れ2人の女性を出した)、「野獣と美女」檻の中で吠える白熊とライオンが美女に変化、「伸縮する女体」ゴムのように首や手足が伸びる、「壺の怪」中身カラッポの壺の中から美女が舞い出る、「大砲」品物を弾丸にして発射しバラバラになったのが地球儀の中から復元や水芸があり、他に「謎のベランダ」「人形ハウス」「浮き美人」などおよそ30あまりの大仕掛けの奇術を演じています。これらは初代天勝から継承したものや、改案、創案したものも多く含まれています。
「野獣と美女」 「大砲」・・・日本奇術協会監修「七十年の歩み」より転載 |
舞台に上がる時はいつも「今、こうしていられるのは天勝先生のおかげ」と感謝し、5分前に舞台のそでに立って「天勝先生、お守り下さい」とお祈りをしていたそうです。広子はこう言っています。「マジックは夢を売る仕事だと思っています。仕掛けはあって当たり前、人を騙すものという概念ではなく、マジックを見にいらっしゃるお客様には楽しんで観ていただきたい。マジックの種あかしを見るのではなく、マジックの楽しさを知っていただきたいと思います。マジックは夢を与える、見る側は夢を持って見ていただく、というのが理想です」(日本奇術協会「七十年の歩み」)。そしてこうも言っています。「時代が変わってきたんですから、奇術もいかにお客様に見てもらうかが、工夫のしどころと思うんです」(月刊「めぐろ」1982年7月・東京都目黒区広報誌)。
広子は平成19年(2007)、93才で亡くなります。あくまでも初代天勝が一座を率いた「大魔術全盛時代」のショーのスタイルにこだわり、最後まで天勝の正統な芸風を失わなかった傑出した女流奇術師-それが松旭斎広子でした。