初代松旭斎天勝一座の花形、
君子は「
絵葉書・初代の「松旭斎天華嬢」 |
翌5年1月、浅草富士館での天華改名興行が当たり、一座は総勢16名で4月から台湾、上海、ジャワ、シンガポール、インドと海外巡業を続けました。しかし大正6年5月のセイロン・コロンボ公演の際に天華は病に倒れ、トーダンスの名手、足立鶴子を代役に立てる事態となります。
コロンボでの病に倒れた天華を報じる新聞記事 「異郷に狂ふ女魔術師」-大正6年6月25日付「東京朝日新聞」 |
その後、天華は健康を取り戻し、同年10月末には東京の新富座で2年振りの帰朝公演を行いました。翌7年1月には京都新京極の明治座(後の京都松竹座)で、昼夜3回の「大魔術劇」(猛獣や蒸気機関車を用いた魔術応用歌劇「チチミール」など)を見せて好評を博します(一行30余名)。また、同7月には京都・
そのため天華一座は足立鶴子を二代目天華にして、大正9年10月、東京・辰巳劇場で、天華大魔術団として再出発しました。
二代目天華一座は大正10年、オリエント・レコード(日本蓄音器・京都工場、後の日本コロムビア)から「小唄 洋行帰り、越後獅子替唄」のレコードを出しており、その中の「赤い唇(赤い唇コップにつけて・・・。歌唱・座員の荒井ふく)」は、天華が舞台で歌い始めて全国に流行しました。初代天華の夫であった櫛木亀二郎の作詞・作曲で、当時の唄本には必ず出ている定番曲で、カフェーなどでも盛んに歌われたといいます。
奇術師によるレコードは、実は初代天勝が大正3年に、同じ京都のレコード会社(旧会社名・東洋蓄音器)から「雑曲・
天華一座のレコード |