土屋理義

マジックグッズ・コレクション
第6回

天華の絵葉書とレコード

 初代松旭斎天勝一座の花形、君子(きみこ) (本名・萩原君雄(はぎわらきみよ))が、29歳年上の兄の萩原秀長(はぎわらひでなが)(自転車曲乗り、ギター伴奏)、娘子連の足立鶴子(いずれも柿岡(かきおか)曲馬団の出身)らと共に、突然一座を退団したのは大正4年(1915)5月のことです。君子は天勝が一番目をかけていた愛弟子で、奇術の覚えが早く華もあったので、兄・秀長も、妹の君子を中心に一座を組むのは可能と踏んで、強引に飛び出したのでしょう。
 君子は「小天勝(こてんかつ)」と名乗り興行を始めます。これに対して「勝手に小天勝の名を使うのはふとどき」との天勝側からの猛烈な抗議が出て、小天勝はこれを受けて天華(てんか)と名を改めます。

絵葉書・初代の「松旭斎天華嬢」
絵葉書・初代の「松旭斎天華嬢」

 翌5年1月、浅草富士館での天華改名興行が当たり、一座は総勢16名で4月から台湾、上海、ジャワ、シンガポール、インドと海外巡業を続けました。しかし大正6年5月のセイロン・コロンボ公演の際に天華は病に倒れ、トーダンスの名手、足立鶴子を代役に立てる事態となります。

コロンボでの病に倒れた天華を報じる新聞記事「異郷に狂ふ女魔術師」-大正6年6月25日付「東京朝日新聞」
コロンボでの病に倒れた天華を報じる新聞記事
「異郷に狂ふ女魔術師」-大正6年6月25日付「東京朝日新聞」

 その後、天華は健康を取り戻し、同年10月末には東京の新富座で2年振りの帰朝公演を行いました。翌7年1月には京都新京極の明治座(後の京都松竹座)で、昼夜3回の「大魔術劇」(猛獣や蒸気機関車を用いた魔術応用歌劇「チチミール」など)を見せて好評を博します(一行30余名)。また、同7月には京都・夷谷(えびす)座でも昼夜2回公演を行っています(一行50余名、喜歌劇「ハイジンクス」など)。大正8年は2月に有楽座、8月に本郷座での公演を行い、11月にいたって、天華は櫛木亀二郎と結婚し一児(亀雄)をもうけます。しかし翌大正9年9月30日、わずか24歳の若さで急逝してしまうのです。
 そのため天華一座は足立鶴子を二代目天華にして、大正9年10月、東京・辰巳劇場で、天華大魔術団として再出発しました。

 二代目天華一座は大正10年、オリエント・レコード(日本蓄音器・京都工場、後の日本コロムビア)から「小唄 洋行帰り、越後獅子替唄」のレコードを出しており、その中の「赤い唇(赤い唇コップにつけて・・・。歌唱・座員の荒井ふく)」は、天華が舞台で歌い始めて全国に流行しました。初代天華の夫であった櫛木亀二郎の作詞・作曲で、当時の唄本には必ず出ている定番曲で、カフェーなどでも盛んに歌われたといいます。
 奇術師によるレコードは、実は初代天勝が大正3年に、同じ京都のレコード会社(旧会社名・東洋蓄音器)から「雑曲・雲雀(ひばり)の表情」「合奏・越後獅子」の2枚組で発売しています。演奏者の中に(ギター)萩原(秀長)、(マンドリン)君子の名前が見られますので、これらにならってレコードを天華一座独立後に作ったのでしょう。

天華一座のレコード
天華一座のレコード

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