昭和19年、阿部さんが全生涯にわたり入手して来たマジック関連の洋書、和書、数百冊を亡父は引き取り、私たちが疎開していた先(亡父の郷里 岩手県遠野市)に、10数個のトランクに入れて送って来た。
めずらしい書籍もいろいろあった。
例えば人に見られないように、カギがかかる様になっている本もあった。
また文章は1冊全て両面、1ページ目、2ページ目と同じ内容でありながらページ数だけは1ページ以降、数字通り変わって行く英文の本があった。何か、すぐにでもマジックが出来そうな本である。
同じ本が何冊もあった。「丸善」に本が輸入されると、他人に読まれない様に、阿部さんが一括全部買い取ったのである。当時は戦時下でもあり、物流システムから言っても輸入書籍の再輸入は極めて困難であった事による。
私が中学1年生の時の事で、それらを関心深く眺めた事を良く覚えている。
終戦直後、それらの内、たった1冊、「ポピュラーマジック」と言う本を亡父はTAMC副会長柴田直光氏にお貸しした処、柴田氏は翻訳し、その本を中心に昭和26年「奇術種あかし」というタイトルのマジックの本を出版。その後も再々、版を重ねて発行して来た。
未だ日本に近代マジックの本がない時代、私は「本の綴込み」がほつれる程読み返した。私のマジック習得上のバイブルとなったこの本も、その源泉は阿部さんの蔵書の中にあった訳である。
ただ この本を今読み返すと「カードとは日本で言うトランプの事」と言う文章で始まり、バイシクルカードを「自転車印」、ブリッジサイズを「標準型」トップカードを「表札」、ボトムカードを「底札」」と呼ぶなど、時代を感じる表現箇所が随所に目につく。
阿部徳蔵氏は、親から引き継いだ土地など、かなりの資産があった旨は聞いている。しかしながら昭和の初期には、先代逝去後、既に30年がたっており、また不動産も今ほど高価ではない時代である。
阿部さんは日常生活を、それで賄って来たと思う。
一方では、前述した著書「とらんぷ」「奇術随筆」等 名著ではあったが、寡作且つ版を重ねた事は聞いていない。印税はモノの数ではなかったろう。
「職業は著述業」と言っても、つい「自称」とつけざるを得なかった。
加えて前述、昭和5年の天覧奇術以降、「奇術で収入を得る事は一切しない」と誓っている。
「報酬を受ける奇術は一切やらない・・・」と言うスタンスに立っていた。
阿部さんは、これだけの書籍を入手したり、奇術に生涯を捧げた活動をしてきた訳である。日常生活費用は、どのように調達してきたのだろうか?
奇術しか知らない阿部さんが、奇術以外に収入がある筈がない。
ある時、阿部さんは亡父の処にきて「おでん屋でもやって見たいがどうだろう?」と相談に来られ、亡父は返事に窮した。
全く考えられない事であったが、「何か心当たりがあるのですか・・・?」と水を向けると、「私は奇術以外は何もできない。でも長い2本の箸で、鍋の中のコンニャクやチクワをつつく事くらいは出来ると思って・・・」と、阿部さんは答えた。
阿部さんのアタマの中には、資金の事、味付けの事、客を呼ぶ事など、一切無かった。阿部さんのお人柄を示すほほえましい風景である。
亡父は阿部さんに「何か原稿でも書いたらどうですか?」と言う事でゴーストライターの道を紹介したり、幾つかの起稿を依頼した。
マジックラビリンスに過般、私が寄稿した「阿部さんの手書きメモ」はその1つである。
その後、調べて分かった事だが、それらに対して亡父は、何がしかの稿料をお渡ししていた様である。
今にして思えば、「阿部さんのメモ」は「貴重な記録」、「尊い形見」として、今も我が家に宝物として眠っている。
またこんな話を聞いた事もある。
TAMC諸会員は、第二次世界大戦中、お国の為に負傷した傷病兵を陸軍病院、海軍病院に手弁当で慰問して回った事があった。
阿部さんの考案した「荷造箱変化鑑」で使う大きな木箱を、手で列車内に持ち込んでは、所沢、横須賀、水戸、熱海、静岡、名古屋、別府など、全国各地を廻っていた。
その時の写真は現在も我が家のアルバムに残っている。
「ボランティア」と言う言葉など未だ使われていない時代の事である。
その事を話した処、阿部さんは「ウォーッ」と大声を出して急に泣き出して、とぎれとぎれに「私の奇術が・・・・お国の為に・・・・お役に立っている
・・・・こんな嬉しい事はありません・・・・ウォーッ・・・」
といつまでも泣きやまなかった。
これも、年齢的に軍隊に行けなかった阿部さんの誠実さを表わす一面ではないだろうか!
その後、戦局が悪化するなど厳しい世の中になり、TAMCも会員の多くが軍務に就くなど奇術活動自体、盛り上がりを欠く社会となって行った。
一方 亡父は九州転勤などもあって、趣味の世界も、若干薄まった様相である。
何しろ“英語使用禁止”と言う世の中である。
“東京アマチュアマジシャンズクラブ”も、会の名称を「奇術文化研究会」と改めた。
英語が使えない社会で「野球」が大変苦労した話は有名だが、奇術の分野で英語が使えない事は考えられない環境である。
その様な時、「阿部さんが体調を損ねた」と言う事を聞いた亡父。
直ちに鵠沼の阿部さんを訪ねた処、全身にムクミが出ていて、相貌が変わり、「これが阿部さんか!」と思える程、ひどい変わり方をしていた。
2度目の奥様よねさん(4年前に100歳で逝去)の遺品の中に阿部さんの“書き置き”(遺書?)がある。
1つは昭和19年7月19日に書かれたもので、上記 谷崎潤一郎氏に会う5日前のものである。
もう1つは、昭和19年7月29日、つまり谷崎氏と会った5日後のもの。
奥様よねさんに宛てたもので、その1か月後に阿部さんは逝去している。
そこに書かれていた内容は次の通り。
書き置きの事 病苦に耐えず、死す。谷崎氏に会えぬは残念。 昭和19年7月19日 阿部徳蔵 |
発病以来、今夜の病苦が一番ひどい。この苦しみに 耐えつつ生きて行くことは私の力では無理だ。 私自身は こんな老いぼれだが 諸先輩その他の 方々のお力にてなすべき事は数々ある。 それが出来ぬのは残念。 だが今の苦痛には勝てない。今死ぬ。病苦の為に。 許してくれ人々。誰彼・・・・あー苦しい。 徳蔵 昭和19年7月29日 午前1時 |
そして阿部さんは昭和19年8月25日、56歳の若さでこの世を去った。
第二次世界大戦の末期でもあり、当時、日本ではいわゆる青年はすべて軍務に就いていたため、殆んど一般社会にはおらず、亡父がこれまでの交友関係もあって、阿部さんの葬儀全てを取り仕切り、名刹「本郷駒込吉祥寺」に葬った。
注1:吉祥寺は徳川家より種々拝領を受けており、直径2mに及ぶ大太鼓はその一つ。
今も本堂に供えられている。
注2:今の「武蔵野市吉祥寺」は、江戸時代の大火で焼け出されたこの地に住む人々が
移り住んで「吉祥寺」と名付けたと言われている。
木材のない時代であり、準備された柩は「竹材」で作ったものだったので、「木製棺桶」を調達するのに大変苦労した。今では考えられない事である。
今にして思えば、阿部さんが考案したイリュージョン「荷造箱変化鑑」の木箱を
使えば、ご本人もどんなに喜んだか・・・など考え、私は当時を偲んだ。
いま阿部徳蔵氏が逝去後 70年を越した。
奇術一筋に賭けた阿部徳蔵氏の生涯!
私も小学生4年の学芸会で、ラージサイズのトランプを使って「向いている方向が変わるキング」を演じたのが、奇術人生のスタートだった。
爾来70余年。私も阿部さん同様「奇術一筋の生涯」を貫きたい。
その後、縁あって昭和38年、坂本家も“名刹 本郷駒込の吉祥寺”
の阿部さんが眠る近く、同じ吉祥寺内に墓地を求め、坂本家の墓地とした。
亡父坂本種芳は 平成の名も知らぬまま28年前、昭和63年に他界した。
いま、盟友阿部徳蔵氏と程近い墓地で永眠している。
考えて見ると私もこの世を去れば、ここに眠る事になるだろう。
そうなると、創立以来80年を経たTAMCの“これまでの会長就任者”(累計18人)のうち、私も含めて3人が、ここ「本郷駒込 吉祥寺」に眠る訳か!
阿部さんとは、小学生の頃 お会いして以降であるから、70余年ぶり、
亡父とは30年程の経過で会えるかもしれない。
戦前の奇術研究家
昭和10年~昭和13年の4年間 TAMC会長(第2代)
阿部徳蔵氏
戦前~戦後の奇術研究家
昭和42年、昭和45年の2年間 TAMC会長(第5代、第7代)
亡父 坂本種芳
戦後~平成の奇術研究家
平成21年~平成24年の4年間 TAMC会長(第18代)
私、坂本圭史
「この3人 あの世で それぞれの世代のマジックの良さを語り合う
“マジシャンズクラブ”でも創ろうかな・・・!」