阿部徳蔵氏は、東京アマチュアマジシャンズクラブ(TAMC)第2代会長であり、そのあと第3代会長は緒方知三郎氏、第4代会長が亡父坂本種芳であった。
その様な関係で、阿部徳蔵氏と亡父は大変深い交流を保ち、毎年元日には必ず我が家に、ご挨拶を兼ねてお出でいただいていた。私が小学生の頃の事である。
私のマジック人生を振り返ると、阿部さんは大きな存在である。
その影響もあって、この数年の、私の阿部さんに関する具体的な奇術行動を申し上げると
(1)このマジックラビリンスに下記のテーマにより、二度にわたり 阿部さんの事を書かせていただいた。 |
(ⅰ)阿部徳蔵氏と名著“とらんぷ” |
(ⅱ)阿部徳蔵氏の手書きメモ |
(2)平成22年TAMCマジック発表会では 「阿部徳蔵 天覧マジックの原点“荷造箱変化鑑”」のタイトルで、 阿部さんの奇術一筋の人生を、舞台上の大スクリーンで、解説しながら、 阿部さん創作イリュ―ジョン「人体交換術」(瞬間入替わり)を再現した。 |
平成22年TAMC発表会にて
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阿部徳蔵氏について語る著者
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阿部徳蔵氏創作の人体交換術
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阿部さんが亡くなって70年以上を経過した。
「人間は2度死ぬ」と言われている。
1度目の死は「医学的な死」である。
2度目の死は「その人の話題が世の中から消える時」である。
そこで私はこの偉大な奇術研究家 阿部徳蔵氏に、「2度目の死」を迎えさせないために、ここに改めて阿部さんの奇術一筋の生涯を幅広く奥行き深く書き出して見る事とした。
阿部さんは 尾張の殿様 徳川義親侯爵(奇術に深い趣味を持っていた)の知遇を得て東京アマチュアマジシャンズクラブ(以下“TAMC”と記載)の昭和8年創立に携わって来た。実質的創立者の1人である。
アマチュアではあったが、奇術に深い知恵、知識、関わりを持っておられた。
大正の末期以降、台覧、天覧の栄に浴するなど既に「奇術の名人」であった。
この写真は、昭和8年、アメリカから帰国した世界的プロマジシャン石田天海師を、徳川侯爵が自宅に招いた時のものである。前列中央が徳川侯爵と徳川夫人、その左隣が阿部さんである。
徳川侯爵の右側は当日のゲスト石田天海ご夫妻。
後列左から5人目が、戦後24年の永きにわたりTAMC会長であった緒方知三郎氏(江戸時代の蘭学医 緒方洪庵の孫)。
緒方氏は東京帝国大学を卒業した時、いわゆる銀時計組という秀才グループに入り、そのご褒美として世界一周の医学研究の旅に出た、しかし医学の研究は余りせず、世界各地でマジックの研究をし、各国クラブと交流を保つ“きっかけ”を作って帰国した・・・・と言う話は有名である。
それらの情報がTAMC創立のベースの一つになっている。
この席にいる方々が正に日本のアマチュア奇術界の基礎を築いた人々であると言えよう。
亡父坂本種芳(後列右から4人目)もこの席におり、写真欄外のメモ、氏名等は
亡父が記載したものである。
阿部徳蔵氏の家業は絹問屋で、1人息子。職業は「著述業」と自称していたが、はなはだ寡作で、著書「とらんぷ」も「奇術随筆」も稀に見る名著であったが、再版はされておらず、職業的には、殆んど無職に近かった。
いつも膨大な和洋奇術書の中に埋まって、読んだりどう演ずるかを企画したりしており、奇術以外は一切無関心な生活であった。
しかも阿部さんは、単に趣味や器用さの片手間で奇術を修めたものではない。
50余年の生涯の全てを賭け、血の滲む様な努力と精進の結果得たもので、奇術に対する才能レベルは極めて高いものであった。
そのため、阿部さんは全財産を奇術に使い果たし、妻子を犠牲にし、独り「奇術」と言うジャンルに入り込み、満身創痍で切り開くため、生涯を賭けて来た人である。
実は亡父は、昭和6年、長男(私の兄)を病で失い、その寂しさを紛らわすためにマジックを始めたが、TAMCで阿部さんと接してからは奇術指導を受けつつ、やがては持ち前の工学機械技術力を駆使し、一緒に創作マジックをつくるなどすっかりマジックに嵌まり込んでしまった。
阿部さんと共同研究による創作奇術は、昭和10年頃からTAMCの恒例試演会でも数多く発表されている。
その主なものとしては:
荷造箱変化鑑(瞬間入れ替わり術)、龍の箱(人体出現術)、剣先渡り、
人体切断術、双搭の台(人体消失術)、物品拡大術(高速度成長術)など・・・、
現在各所で行われている同現象のイリュージョンの原点はすべてこの時の二人のアイデアに端を発している。それらは広く欧米にも紹介されている。
日本手妻“若狭の水”はセリフ、演技内容とも阿部さんの創作である。
またTAMCマジック発表会で幾度となく演じて来た奇術劇「あっちの僕」も当初のシナリオ作りと奇術考案は、阿部さんによって行われた。
(首のすげ替え奇術をユーモラスに演じたもの)
2人は、その企画・構成で、昭和12年 有楽町日劇で3000人の観客の前にしてステージショー「魔術の秋」を開催した。
日劇で恒例行なわれていたイベント「秋の踊り」に大小10種類を越す奇術を組み込んでいる。
「東宝10年史」には、昭和12年9月【阿部徳蔵、天城勝彦 奇術考案】で
① 奇術劇「あっちの僕」
② ステージショー「魔術の秋」
の写真が掲載されている。
「東宝10年史」の写真説明には“天城勝彦”とあるが、それは亡父坂本種芳のペンネームである。亡父は当時 国家公務員(現在の国土交通省技師)であったため実名は使えず このペンネームを使用していた。
当時人気の絶頂にあった女性マジシャン“天勝”の名を分割して「姓」と「名」をつけたものである。
阿部さんは大正12年、葉山の御用邸で摂政官(のち昭和天皇)に奇術をご披露し、ご褒賞をいただいた。
続いて翌大正13年には、赤坂離宮で2度目の天覧に接し、更に昭和5年には皇族懇話会の御席で、前代未聞、天覧の栄に浴し、阿部さんは恐懼感激その極に達した。阿部さんはこの天覧奇術を機に、「報酬を受ける奇術は一切やるまい」と心に誓い、生涯それを貫いた。
その様な阿部さんに文豪谷崎潤一郎と長く親交があった事が、平成27年6月、「朝日新聞」に、6段抜きの大きな記事の掲載で、更に明らかになった。
昭和26年9月発行の「中央公論」に、文豪谷崎潤一郎の「三つの場合」と言うページがあり、そこに谷崎潤一郎が阿部さんの事を詳しく触れている。
この中央公論の寄稿が昭和36年発行の単行本「三つの場合」のモトとなった内容である。
その第一章が、“阿部さんの場合”と言うサブタイトルで、文豪が同氏宅を訪ねた時の状況を次の様に書いている。
①阿部徳蔵氏とは大正時代以来の付き合いになる。 |
②かねて同氏から「魔術に関する蔵書を見ておいてくれ・・・」と手紙をもらい、 昭和19年7月24日見舞いを兼ねて鵠沼に同氏を訪ねた。 |
③同氏は体調を損ない、かなり重体である旨聞いていたが、会うと、顔には浮腫が 見え、余命いくばくもない様子だった。 |
④同氏は本日、私と会うため、前日より睡眠剤をとり、その日の朝は注射をしたり していた由。 |
⑤私の顔を見るなり慟哭し、「もっと近づいてくれ・・・」と、座布団を枕元に 引き寄せたりした。 |
⑥夕方 帰宅しようとすると、声を挙げて泣いた。 |
「中央公論」には次の様な事も書いている(原文のまま)
『戦争がいよいよ苛烈になってから、坂本種芳と言う隠れたパトロンがあって、この人が色々と面倒を見ていたらしいと言う話を、最近になって聞いた。この人の本職は鉄屋さんであるが、やはり有名なその道のアマチュアで、目下、坂本機械工業所の取締役社長をしている。そして阿部さんが生前苦心して外国から取り寄せた奇術に関する書籍類の多くは、幸い散佚を免れて、現今この人が譲り受けて保管している由である。』