松山光伸

天一より早く海外で演じられた水芸

 天一の芸として有名な「水芸」は、江戸末期に竹沢藤治(藤次ともある)が本格的なものとして演じて以降、吉田菊丸、養老滝五郎、中村市徳ら、かなり多くの芸人が持ち芸として演じている。天一はこの芸を海外で演じて有名になったが、それ以前にも少なくとも2人の芸人が海外で演じていたことが確認できている。

ジンタロー資料
「Magical Nights at the Theatre」の表紙

 一人は開国直後の慶応3年(1867)に東南アジア各地で公演を行いながら豪州とニュージーランドを目指した通称「レントンとスミス率いる日本グレートドラゴン一座」のGengero(源次郎)であり、もう一人は明治19年(1886)年の竹沢萬治で、これまた豪州メルボルンで演じている。いずれも天一が日本で本格的にデビューするよりも前のことである。

 これらは豪州における奇術の公演記録を綴った”Magical Nights at the Theatre(1980)”に極めて簡単に触れられているだけで、真偽のほどが定かではなかったが、当時の現地の新聞記事にも該当するものが見つかり明らかになったものである。

 Gengeroが水芸を演じたのは、グレートドラゴン一座が豪州での初公演となった1867年12月26日初日のメルボルンのプリンセス劇場における舞台である。Gengeroは箱からたくさんのシルクを出し、次いでThe Magic Fountains(水芸)を演じたされている。

ジャグラー(曲芸師)となっているGengero(源次郎)

 これが水芸のことであるのが判るのは、Magical Nights at the Theatreの記述の中で天一の水芸(Water Fountain Illusion)のことに言及し、「これは天一の創作のようにいわれているが、天一は以前から日本で演じられていたものを欧米で演じただけである」としてGengeroの豪州での演技のほうが先行していたと述べているからである。私自身は元となる新聞記事やポスターをまだ確認できていないが、日本人一座の初期の訪豪の動きをつぶさにまとめたデビッド・シソンズ(David C. S. Sissons)氏の”Japanese Acrobatic Troupes Touring Australasia 1867-1900”にも、プリンセス劇場にこの時期ドラゴン一座が出演していたことが記されている。

 そしてメルボルン公演から1年余たった、ニュージランドのオークランド市でのドラゴン一座の記事に再び水芸(magic fountain)の言葉が見える。Daily Southern Cross紙の1869年1月8日の4ページ目である。ただ、どういうわけか1年数ヶ月に及ぶ豪州・ニュージーランドの興行を伝える記事に「水芸」はほとんど出てこない。後年の天一が欧米で演じた水芸の記事に比べるとその差は歴然である。ちなみに源次郎は曲独楽を操って評判になっている記事が多いが、その他軽業芸や水芸も演ずるなど、多様な芸をこなしていたことが確認できる。

 一方、竹沢萬治は1886年の年央にシドニーでスタートした日本村博覧会(Japanese village and sale of Eastern curiosities)がその後メルボルンに移った頃日本から呼ばれ、他の芸人と共に演芸イベントに出演しており、その水芸はThe Great Water Trickとして広告に現れている。このメルボルンでの博覧会は1月半ばまで続き、その後ニュージーランド各地に転じてそこでも引き続き出演することになるが、博覧会は、工芸品の実演販売用の小間で仕切られた会場や、動物芸のサーカスショーのテント場などとの合同の催しだったため水芸を演じられるような環境には恵まれなかったと見え、その後の記事には一切出てこない。

Manjee(萬治)のThe Great Water Trickがある1886年12月1日のArgus紙の広告

天一が評判になったのに比べ、彼らはなぜ評判にならなかったのか

 大きな謎がこれである。実際、天一の米国公演は必ず水芸のことが記事になっているが、源次郎や萬治の水芸は極めてマレにしかでてこないばかりか現象の描写もないような扱いなのである。どうやらこの原因は2つあったようだ。

 一つは、天一一座は手品師だけで構成した一座であり、特に水芸とサムタイが日本独自のものとして注目されたためそれらを海外巡業中メイン芸として演じ続けたが、それに対し、源次郎は軽業を主体とする一座の一員であり「装置」のセッティングを必要とする水芸よりも派手な動きで注目を集めやすい軽業芸主体の興行に成りがちで、萬治にしても博覧会の余興としての立場であったため劇場で演ずる機会はあまりなかったという違いである。

 もう一つは水芸の装置に起因する違いである。実は、昔の水芸は電気も水道も完備していないところで演ずるには難しい芸であった。日本で大劇場で初めて電気照明が使われたのは明治も20年代に入ってからで、水道に至っては明治31年末に都市部にようやく敷設されたにすぎない。したがって、天一にしても当初は電動ポンプはおろか水道も使える状況ではなく、十分な量の水を舞台裏に準備するには大きなタンクで運び込むことが必要だったであろうし、演者のバルブ操作によって噴射できるような水圧を確保するには高いところに設置したタンクに人力ポンプで水を送り込むという骨の折れる作業が必要だったはずだ。

 常設劇場での興行であればこれらは可能だったとしても、巡業しながら水芸を演じようとすると、まずは水道が舞台裏まできているかどうかが鍵であり、さらにタンクに十分な水量を蓄えたり配管のチェックや作動確認など多くの時間と座員とのチームワークで初めて準備が整うのである。

 開国直後は、海外の大都市でもステージ裏まで水道が来ていることは期待できなかったであろう。その結果、日本では毎日のようにできた水芸もほとんど演ずる機会はなかったはずだ。ところが天一が渡米した明治34年ともなると欧米の大都市では上水道は一般的になっていたと思われ、天一が多いに水芸で名を馳せることが出来たと考えられるのである。

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