現時点で明らかになっているのは、慶応2年(1866)年の10月末に相前後して出国し、翌年から本格的に各地で演じたImperial Japanese Troupe(俗に東回りの一座という)の隅田川浪五郎と、The Japanese Troupe(俗に西回りの一座という)のアサキチとの二人が有名である。
ただ、彼らに先駆けること1と月前の9月末に鉄割一座というグループがパスポートの発給を待たずに出港し、サンフランシスコで1866年中にいち早く初舞台を踏んだことがわかっており、その中のアイノスケという人物が最も早く海外で演じた手品師だったとされている(「実証・マジック開国史」第2回)。
ところが更に遡ること4年前の1862年に英国の劇場に日本人芸人が現れていたようだ。演じた内容もさることながら名前も全くわからないこの謎の人物については今後多くの研究家や演劇史の専門家の手で解明されることを期待したいが、ここでは現時点で分かっていることを列記しておこう。
彼のことが出ている新聞記事はBrigton Gazette紙の9月25日と10月2日、9日にある。(ブライトンはロンドンの真南の海岸都市)
Royal Pavilionというのは、ジョージ4世が19世紀のはじめの皇太子時代から使い始め、その後ウィリアム4世、ヴィクトリア女王も使ったという宮殿であるが、その後1850年に市の所有となってからは上流階級の社交やエンターテインメントの場として使われるようになった(修復しつつも現存していて一般公開されている)。従って一座がここで演じた1862年の9月から10月にかけての一週間はそういった場での演技である。
注目されるのは演じられた芸が記されている10月2日の記事で手品(legerdemain)が演目に見える。これを演じたのが中国人なのか日本人なのかは定かでないが、場合によってはこれが日本人が海外で演じた初めての手品だった可能性がある。パビリオンでの一週間のあとは市内のサセックス・ストリート・サーカスに場を移して一般大衆に対して興行したことをこの記事は伝えている。
ちなみに9/25の記事にある「Drury-lane Theatreからの来演」という表現が大変気になるところだ。Drury-lane Theatreというのはロンドンの劇場街にある由緒ある大劇場だったからである。ただこれについては広告記事等を確認するに至っていない。
さて1862年といえば、主要各国との通商条約締結(1858)や開港(1859)のあとのことであるが、海外渡航規則や旅券が定まる1866年よりかなり前のことである。当然、一般人が欧米に出国できる手立ては一切なかった。となると考えられるのは1862年に欧州を初めて訪れた遣欧使節団のメンバーが関係していた可能性である。例えばその中に芸の好きな人物が含まれていて、その芸をたまたま披露した結果、演芸の場に駆り出されたという想像だ。ただこの可能性はきわめて低い。使節団が英国を巡ったのは4月から5月の時期で、そのルートもリバプールやニューキャッスルを経て再びロンドンに舞い戻っているためブライトンに行った形跡はないからだ。ましてや9月ともなると使節団は欧州各国を回って帰国途上にあるためこの可能性は無視してもいいだろう。
そこで唯一考えられるのは、中国に渡っていた日本人芸人が渡英する中国人一座に加わってブライトンにたどりついたという筋書きである。実は、鎖国していた江戸時代にあっても日本人商人は比較的自由に中国と行き来をしていたため、芸人も中国まで足を伸ばしていた可能性はある。ただ、もしそうだとしても未知の国の人と未知の国に渡るという大胆な行動が本当にできるのかとなると、正に謎だらけの仮説でしかない。いずれ真実が解明されることを願うものである。