7月14日、当日は晴であった。午前中はグラウンドでクラス対抗のサッカー試合があり、講堂に全校生徒約300人が集められたのは午後三時、それから約2時間にわたってマジックの演技が行われた。そのことは中等科の教務日誌で確認できる。弟宮で中学1年だった義宮正仁親王殿下も一緒に参加した。
生徒は全員白い開襟シャツに黒い長ズボン。演者も背広姿だったため、冷房設備のない大部屋での演技は、さぞや暑くるしかったはずで手品を演ずる場としてはとても良い環境とは言えない状況だったようだ。
小金井校教務日誌
(提供:学習院アーカイブス) |
明仁殿下を前に演ずるジャイコブ・トロップ(出典:AP Photo)
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参加したマジシャンはそれぞれ立って演ずることのできる演目を2,3披露し、そのあとで、ブースが「シンパセティック・シルク」(通称6枚ハンカチと言われる結び目が移動する現象)と「ニードル・スワローイング・トリック」(縫い針と糸を呑み込み、最後にそれらが糸に繋がった状態で口から出てくる術)を演じたりした。そしてフィナーレの演目に彼が選んだのが「バニシング・バードケージ」(小鳥が入った小さなカゴが一瞬に消失する現象)であった。一旦鳥カゴを消して見せた後「もう一度ご覧に入れましょう」と言って、皇太子殿下にお手伝い役をお願いしたのである。生徒の声がおさまり皇太子の反応があるまで静寂の間が生じたものの、意を決した殿下が立ち上がると大歓声があがって、いよいよ殿下の眼前における「鳥カゴ消失現象」が行われることになった。殿下がカゴの周囲を両手で囲い、カゴが消えないようにと態勢をとられたが、実はブースには心配があった。この日はあいにく暑くて湿度が高く、おまけに背広を着ていたため鳥カゴを消すための引きネタがいつも通りにスムースに作動してくれるのか気になっていたのである。結局その心配は杞憂におわって無事演技は終了することになった。
終わると彼らは隣接している仮寓所(仮の東宮御所)にお茶に招かれた。そこには皇太子以下、数人の教員と侍従が同席をしており、マジシャンたちが簡単な自己紹介をすると皇太子も握手で応えるというフォーマルな雰囲気だったとブースは記している。
そして、ここで丸テーブルを前にプライベートなクロースアップマジックを3人が代わるがわる御覧に入れることになった。特に何事もなく演技は進んだが、実はブースが演じた簡単なカード当てのところで若干の問題が生じることになった。それは皇太子が一組のデックの中から自由にカードを選んだところで、演者が後ろ向きになり、その間に選んだカードにサインをしてもらうよう皇太子に依頼した場面である。ブースとしては将来天皇になる人のサインを記念に入手しておきたかったという気持ちもあっての演目だった。
皇国の後継者である神聖な方に背中を向けるということ自体がエチケットに反したものだったが、実はそのことは大目に見てもらうことが出来た。ただサインをして欲しいという依頼に対し、皇太子と周囲の人が急に相談をしはじめたのである。言っている意味が理解できなかったのだろうと思ってブースが何度か繰り返し依頼した結果、最終的には無事にサインをもらい、その後それが予想外のところから出現して無事に演技は終了することができた。ところがその後お茶を口にしながら懇談をするうちに何が起きていたのかを侍従からブースは次のように耳打ちされてようやく事情が呑み込めたのである。
“Perhaps you do not know it, but in Japan the signature of an emperor or crown prince is almost sacred. It is thought by the people to possess great power and bring good fortune to the owner of any document on which it is placed. Therefore, it is usually written only upon national documents relating to Japanese affairs. It is never written for a commoner, and especially a foreigner. Today the crown prince set a precedent in imperial family affairs when he signed your playing card!”
要約すれば「陛下や将来陛下になる方の直筆の署名は神聖なだけでなく署名されたものを所持する人には強大な力や幸運がもたらされるとされているので署名は国事に関する書類に対してのみ行われる約束事になっている。いままで一般の人への署名はもちろんのこと、特に外国人に対して署名することも一切なかったので、きょうのサインは歴史的な前例になった」との説明を受けたのである。
これを聞いたブースは「日本の伝統を壊しているのは占領軍だけでなかった」(The American armed forces are not alone in having broken ancient Japanese tradition!)と半ば自慢気に記しているのであるが、実はこれには思いがけない後日談がある。
日を改め、彼が演技で使ったデック(カード一組)を広げ明仁殿下の署名を再確認した時のことである。
なんと、そこには明仁とかAkihitoという字はなく「東京」と書かれていたというのである。
侍従らがそれに気づいていたのかどうかは不明であるが、殿下はことの重要性に鑑みてサインではなく
ローマ字で「東京」という文字を書きつけていたのである。ブースにしてみれば、これでは殿下にサインしてもらったカードであることを証明できないことになり、むしろ殿下の方が一枚上手だったことに感心したというエピソードである。