松山光伸

明仁親王殿下が戦後に目にした初めてのマジック(4)

5年後の出会い


ジョン・ブース
Unitarian Universalist教会のWeb図書館
“Harvard Square Library”より

 もう一つの後日談は “Creative World of Conjuring”, John Booth, 1990という自叙伝で明らかにされている。それは昭和28年に明仁殿下が天皇陛下の名代として英国のエリザベス女王の戴冠式に出席した帰途ボストンに立ち寄られた時の話で、殿下が19歳の時のことでした。9月21日、市内のシェラトン・プラザ・ホテルでジャパン・ソサエティの主催による歓迎の昼食会が開かれました。皇太子殿下と三谷隆信侍従長をはじめとする随行の面々を、新木栄吉駐米大使や現地で活躍する要職の方々が歓待した場の一角にブースの姿がありました。ところがバースは皇太子の友人として呼ばれたわけではなかったのです。その場に招かれたエドウィン・ライシャワー(Edwin O. Reischauer)に「一緒に行かないか」と声を掛けられ出席することになったのです。ライシャワーといえば後に駐日アメリカ大使として着任することになる日本生まれの有名な学者です。当時はボストンにあるハーバード大学の教授職にあってアメリカ政府の諮問委員として対日政策にも関与する知日派の要人でした。そのライシャワーはボストン近郊のベルモント(Belmont)に住んでいてそのベルモント地区の教会を受け持っていた牧師がジョン・ブースだったため日常的に親しかったライシャワーが彼に声を掛けたという経緯でした。きっとライシャワーはブースから「以前、皇太子にマジックを見せたことがある」という話を聞かされていたのでしょう。

ボストン市内のシェラトン・プラザ・ホテル

 ブースはメインテーブルにいる殿下とは10メートルほど離れていたものの殿下の方に向いて着席していました。食事がはじまってまもなく、彼の横に座っている日本人から「殿下が君の方を時々見ているよ」と言われ、目を向けたところ実際に見つめられていることを知ってビックリした、とその時の情景を述べています。「若い頃一対一で初めて見せられたマジックの相手というものは強く記憶に残っているものなので思い出されたのではないか」とその時の印象を述べているが、小金井の校舎で見たマジックからまだ5年しか経っていない時期であり、個性的なブースの顔立ちから考えても殿下は間違いなく「あの時のマジシャンだ」と気づかれていたのではないだろうか。残念ながらブースが殿下に直接声掛けできる場面はなかったので殿下が気づかれたのかどうかは謎のままであるが、上皇陛下になられたいまも当時のこの場面を記憶されているかどうかとても興味あるところである。

秩父宮殿下の御殿場療養先への訪問

 皇太子殿下への台覧を果たしたブースはその数日後、御殿場で病気療養中の秩父宮雍仁親王(昭和天皇の弟宮)を訪問している。実はブースは富士山への登山を願っていてそれを耳にしたウィットリーが軍のジープを手配してくれて二人で富士に向かう段取りをつけていた。ところがなんと外務省からの連絡が入り秩父宮殿下に二日後にインタビューできることになったとの話が舞い込んだのである。 小金井で皇太子殿下に陪席して演技を見た侍従長がこの人物なら間違いないと感じ、 記者としての立場でもあるブースに秩父宮にインタビューをしてもらってもいいだろうと急遽計らったのではないかと想像される。

明仁親王への演技の数日後に秩父宮の御殿場別邸を訪ねたBooth
“Wonders of Magic”(Ridgeway Press, 1986, John Booth)から

 秩父宮殿下は昭和15年に結核を発病され、翌年御殿場の別邸に居を移され静養されていたがブースが訪問した時(昭和23年7月)の前後はご体調が安定しておられた。雍仁親王はもともとスポーツマンで登山も度々楽しんでおられたことを耳にしたためか、ブースは富士山に登る予定にしていることを話に出し「もしご都合がよろしければご一緒しませんか」と気安く声をかけているが、そのことからも殿下が病気を感じさせない小康状態だったことをうかがわせてくれる。

 その時の殿下の返事は“I have already climbed it. There is a famous Japanese proverb - You are a fool if you do not climb Fujiyama but you are a worse fool if you climb it twice.”(富士山に一度も登らぬ馬鹿、二度登る馬鹿)という言葉を引き合いに出しながら婉曲な断り方をされておりブースとしては殿下の体調が不安定だったことを気づくことなく辞したようだ。ところが殿下はその後体調を崩され同年9月には腎臓剔出手術をされている。翌昭和24年2月から当時日本では製造できていなかった新薬ストレプトマイシン治療を開始されたものの、既に病巣が腎臓周辺に広がるなど薬効は限定的で、昭和28年1月に薨去された。

 ブースの紀行文 “Fabulous Destinations” (Macmillan, 1950, John Booth) によれば、インタビューでは、当時の殿下の質素な生活、皇室の戦前から戦後への変化、更には天皇陛下の退位の噂の真偽など機微に触れることまで殿下が気さくに話されていて、当時の皇室の状況を垣間見ることができる。この訪問時にマジックが披露されたのかどうかは不明であるが、次なる話題に繋がるものとして敢えて紹介した次第である。

秘めていた皇太子の結核

 実は、皇太子明仁殿下はご自身も結核に罹患されていたことをのちに打ち明けられている。それはエリザベス二世女王の戴冠式に陛下の名代として出席するなどヨーロッパ各国を回られて帰国した直後の診断で感染が明らかになったものであった。秩父宮殿下が同じ結核で亡くなられた年の12月のことで、満20歳を間近に控えた時期であった。

 歴史にイフを持ち込んでも意味はないが、もし皇太子殿下が独身のまま結核で倒れられていたら、皇位継承をめぐる国論はその後どのように推移していただろうか。皇太子殿下に危急の事態が生じた場合は当然のことながら弟宮の義宮(後の常陸宮)が皇位継承第一順位になるが常陸宮殿下も後嗣に恵まれておらず、かといって昭和天皇のご兄弟(秩父宮・高松宮・三笠宮)にもご子息がおられなかったりご子息の次の代で男系が絶えていたりしているからである(最後の皇位継承者となる高円宮憲仁殿下はスカッシュの練習中に心不全で亡くなられた)。皇位継承者はしばらく空位とならざるを得ず、日本は皇統の危機に直面したばかりか、勅許が必要になる重要な国事行為や危急の事態にかかわる政策決定が停止することすら起こりうる混乱がその後起きたのではないだろうか。鳥肌が立つほどの国難が待ち構えていたと考えられるイフである。

 このご自身の結核の話はわずか10年前に初めて公に披露されたものである。平成21年3月に行われた第60回結核予防全国大会の挨拶の中で語られたことであった。皇位継承問題(皇位継承資格者の不足)が平成の半ばになって大きく取り沙汰されたものの、実際には秋篠宮悠仁親王の誕生によって一旦この問題は棚上げにされたように見受けられるが事態は引き続き深刻で急を要している。思うに明仁陛下は、危機が身近なところに迫っていたことを国民に感じ取ってもらうべくご自身の話を披露されたのものとも思えてくるが如何であろうか。 いずれにせよ占領軍の政策で戦後すぐに多くの宮家が皇籍離脱となったことが今日に続く皇統危機の問題の根源にあることを再認識させてくれた今回の調査であった。

【2019-8-19記】

 

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