天海は34年間(1924-1958)の米国生活を終え、昭和33年4月21日に帰国を果たしました。ドクターから「治ってもとても元のような巡業の仕事はできない」と言われ、もはや無理はできず故国に戻る決心をしたのです。時に68歳のことでした。亡くなったのは82歳ですからその後14年もの間日本のプロ・アマを 指導したことになります。
帰国して間もなく出演した『ニッサンマジックショー』(昭和34年5月10日~12月6日まで31回放映)やスポンサーを替えて翌1月から始まった『雪印マジックショー』(8月24日まで34回放映)で天海の演技を目にした層も、もはや70歳代以上になってしまいました。演技映像もほとんど残っていないため、伝説上のマジシャンになってしまった感が否めません。
両番組は、ともに開局間もない日本教育テレビ(NET:現在のテレビ朝日の前身)による放映で、『ニッサンマジックショー』はゴールデンタイム(夜7時から30分)に、『雪印マジックショー』も夕刻6時15分から30分間と、併せて16カ月のロングランとなり多くの視聴者を楽しませました。ちなみに前年1958年からこの年にかけては、多くのテレビ局が次々と開設され、4月10日の皇太子明仁殿下と正田美智子さんの御成婚の中継特別番組をきっかけにテレビ受像機が一般家庭に普及し始めた時期に当たります。ちょうどその頃天海の演技をお茶の間で見ることが出来たのは正に幸運なことでした。
脳裏に焼き付いた師の芸術性豊かなスライハンド芸と温かみのある表情は、言葉では伝えにくいのが残念ですが、古くは阿部徳蔵が『奇術随筆』の中で、天海が昭和6年の一時帰国時に見せた芸術性豊かで流れるような演技に感嘆の言葉を述べています。また師と接点が多かった風呂田政利は『ニューマジック』誌で、様々な角度から天海のエンターテイナーとしての魅力や、人間性を語っていて貴重です。
昭和40年5月に、生まれ故郷の名古屋に帰郷し、それ以降は「東海マジシャン」誌に『歩みの跡』を連載しながら、時々マジックの会やテレビに出演して過ごすようになりました。そして昭和43年になると、風呂田政利の発起に応えた奇術界の総意によって石田天海賞が創設され、その結果、オリジナリティ豊かな次世代のマジシャンが広く認知され活躍するようになったことは良く知られています。
師が亡くなられたのは、昭和44年に親友ダイ・バーノンが来日し念願の再会を果たしてから3年後のことでした。大動脈瘤の破裂で昭和47年6月6日に急逝されました。
名古屋市内の平和公園に天海の遺骨は納められました。市が推進した区画整理事業で出来上がった平和公園には、新たに大規模墓地が造成されたためその一角が天海の埋葬地になりましたが、そこは夫妻の住まいのあった自由が丘からも近いところでした。
晩年の天海や未亡人になったあとのいわ夫人(芸名きぬ)の身の回りの世話は天海の名を継いだ松浦天海(本名:松浦康長)がされていたようですが、夫人には心配事がありました。「自分が生きているうちはいいとしても、その先のことを考えると墓地を守ってくれたりお参りしてくれたりする人も途絶えるのではないか」との懸念でした。というのも天海夫妻にはお子さんがいませんでした。滞米中の1950年に養女として世子(ときこ)を日本から迎えてロスのハイスクールに通わせていましたが、移動の多いマジシャン稼業だったことから離れて暮らすことも多く、また世子は1957年に米人と家庭を持ったため、帰国後の夫妻の晩年は二人きりで、時々マジックの友人と行き来する生活を送っていたのです。
幸い、いわ夫人には相談にのってくれるお寺の住職がいました。姉の「たき」が蒲郡(愛知県)にある天桂院(曹洞宗)というお寺の住職(天桂院26世)に嫁いでいたのです。ちなみに天桂院とは徳川家康の異母妹である天桂院の冥福を祈るために建立された由緒ある古いお寺です。そこで「いわ」は自分が亡くなった後の心配事を義理の伯父さんに当たる住職(或いはその跡を継いだ27世)に相談したのです。その結果「いずれは天海の遺骨を平和公園から移し、天桂院で供養するようにしよう」という話になって夫人の願いは叶うことになりました。ところがコトは簡単ではありませんでした。
以下は、私が天桂院を訪れた際に、当時住職だった天桂院28世(26世の弟子だった27世の実子)から直接伺った改葬(お墓を移すこと)に至る話ですが、多くの人の好意があってこの改葬が実現したことがわかりました。心温まる話ですので、ここに紹介したいと思います。
天桂院(愛知県蒲郡市)2009年3月撮影
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実は、天桂院26世と夫人の「たき」は、「たき」の姪に当たる加藤政子(1915~2005)を天桂院で育てていました。「たき」と「いわ」の姉妹も旧姓は加藤ですから「政子」はどちらにとっても姪であり、住職にとっては義理の姪にあたります。ここでなぜ「政子」のことに触れるのかというと、天海のお墓を受け入れるにあたって大きな力になってくれたのが政子だったからです。その「政子」が親元でなく、なぜ天桂院で育てられるようになったのかは知る由もありませんが、困難な時代背景にあって伯母たきのいる天桂院に預けられたものと思われます。当時は日本の統治下にあった朝鮮や台湾に渡った日本人が多く、関東大震災に罹災し家族を失った人もかなりいました。また約39万人が亡くなったと言われる、スペイン風邪が日本中で猛威を振るったのは1918~1919年頃でしたから、政子の両親も激動の時代を経験していたと思われます。
その政子は天桂院で成人しますが、育ての親である天桂院26世が亡くなって、その弟子である27世が寺を継いで妻帯すると「これ以上天桂院に留まってはいけない」とお寺を出る決心をします。ただ政子も自分の将来に不安がありましたから、先々は天桂院に自身のお墓を作りたいとお願いした上で、伯母たきの縁を頼って、名古屋市内の車道で洋裁店を始めたのです。
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幸い政子の洋裁店は軌道に乗りました。そんな政子と帰郷後の天海夫妻はしばしば行き来がありました。そして天海亡き後の或る日、政子は「いわ」の心配事を知ることになりました。自分自身のお墓も心配していた政子のことですから、その話は身に染みたことでしょう。早速、二人して天桂院に出向いて相談にのってもらったというわけです。いろいろなアドバイスや方策が取り交わされたはずですが、平和公園からお墓を移すとなると、収入にこと欠いていたいわにとって先立つ費用をどうするかという点も、悩みのタネになったに違いありません。
天海のお墓に一度お参りしておきたいと思ったのは2008年頃でした。『実証・日本の手品史』をまとめる過程で、多くの先人の生涯を追っていたからです。伝手(つて)を頼って聞いてみたところ、名古屋の奇術家から「天海のお墓は蒲郡の天桂院に移った」との情報を得ることが出来ました。墓参のためだけに行くには少し便の悪いところにある気がしましたが、その機会は意外に早くやってきました。天桂院は東海道線の蒲郡駅の北に約1.5キロ、東海道新幹線が走る高架橋に接するように立地していました。住職に来意を告げ、天海の事績をお伝えしたところ、天海夫妻とお寺との因縁について色々な経緯を伺えただけでなく、政子といわのお墓にまつわる話も聞かせてもらうことが出来ました。そしてお墓に向かいました。墓所は、本堂のある境内から墓地のエリアに入ってすぐ右手の狭い坂道を登った、小高い地の一角にありました。
政子の墓石は立派なものでした。墓石の正面には「瑞蓉院政玉彰栄大姉」と戒名が刻まれ、右側面には「平成十七年十二月二十八日没去」の字とともに「当山二十六世和尚内室姪」「加藤政子九十歳」とありました。内室というのは奥様の意で「たき」のことです。加えて左側面には平成十八年十二月吉祥日」「名古屋市車道玉屋洋装店建立」とあり一周忌に墓石を建立したことが読み取れました。洋裁店の名義で墓石の費用を積み立てていたのかも知れません。洋裁店ではなく洋装店になっていたということはお店は繁盛して、政子が晩年になる頃には店構えが大きくなっていたのではないかと思えます。
そして、その墓石の後ろに遠慮がちに「石田家之墓」がありました。墓石の裏には「昭和四十八年六月建立」「石田いわ」とあるので天海の遺骨は一周忌に合わせて平和公園に埋葬されたことになります。ただ墓石に記されていたのは「宝華院釈天海」の法名、貞次郎の名、亡くなった日だけで、「いわ」の墓誌は記されていませんでした。亡くなる前に、自身の法名を用意するところまで気が回らなかったのかも知れません。
いずれにせよ、天海の墓は政子の墓の建立に合わせて平成18年(2006年)12月に平和公園から移設されました(平成19年の初頭に移設がずれ込んだ可能性もあります)。天海が亡くなってから30数年を経たとはいえ、安住の地に二人で静かに眠ることができたことに「いわ」は草葉の陰できっと喜んだに違いありません。
政子の墓とその背後にあった天海夫妻の墓 (2009年3月16日著者撮影) |
住職の話によると、墓地の引っ越しに当たって松浦天海が奔走されていたとのこと、そして天桂院が運営している幼稚園の園児相手にマジックショーまで演じてくれたというエピソードを披露してくれました。複雑な手続きと費用のかかる改葬にあたって、松浦氏が細かいところまで心を砕かれていたことがわかる話です。その松浦天海は夫人から託された改葬を無事見届け、ようやく大きな肩の荷を降ろされたものと想像します。そして氏はその1年後の2008年の1月に72歳で亡くなられました。
松浦天海
出典:DVD「松浦天海を偲ぶ」表紙) |
こうして不世出のマジシャンである天海夫妻の遺骨は、縁の深い方々の助力によってようやく安らぎの地を得ることが出来ました。ただ気になることが一つあります。それは、柳川一蝶齋(三代目)、松旭斎天一、松旭斎天勝といったマジック史における重要人物には、顕彰碑や記念碑が墓地の境内やゆかりの地に建てられているのに対し、天海にはそのようなものが未だにないことです。ショービジネスの本場でグレート天海と称されるほど活躍し、帰国後も日本の奇術界の発展に大きく貢献した天海は歴史に残る偉大なマジシャンでした。その事績を後世に伝え、郷土の誇りとしてもっと知ってもらいたいとの思いが残りましたが、その実現に向けて日本のマジック界が知恵を絞れたらどんなに素晴らしいことでしょう。
そして、その石田天海が没してから来年(2022年)はちょうど50年となる節目の年に当たります。