松山光伸

ガードナーの自伝の拾い読み

 マーチン・ガードナー(Martin Gardner)の自伝 ”Undiluted Hocus Pocus”が Princeton University Press社から刊行された。 自身の言葉でこのようなものを残していたことを知りとても嬉しくなった。 内容は、生い立ちから著述の仕事につくまでを綴った前半、プライベートなものも多く収録した写真集、彼が関わってきた主題ごとに書き綴った後半、となっていて全体で21章の構成である。


 まえがきを数学者でマジシャンでもあるPersi Diaconisが記し、あとがきをマジシャンでCSICOP(超常現象の科学的調査のための委員会)の主要メンバーでもあるJames Randiが担当している。ともに長い付き合いの親友である。
 子供の頃の心象を含め、その思い出を綴っており、彼の興味が広がっていく経緯や考え方などを知ることが出来るが、ここでは本人のマジックとの関わりなどを中心に拾い読みしてみた。


 記憶にある最初の風景といえば、父の腕に抱かれてかえでの落ち葉が敷き詰められたカラフルな秋の光景で、拾ってもらった落葉の一枚が燃えるような鮮やかな色合いだったことをハッキリ覚えている。 色への興味は虹にとても感動していた母ゆずりのようだ。 私の場合、虹は実際にはそこにはなく目やフィルムに映るだけの存在であるということがすごい現象に感じた。 鏡に映った姿が実際にはそこにはないものを映じてくれているというのもとても不思議に感じたものである。

 小学校では女性のポーク先生(Polk)が多くの詩を皆に読ませ覚えさせてくれた楽しい思い出がある。彼女の詩に対する情熱に心を奪われるものがあった。或る日その先生が家庭訪問で来宅した際に四枚のエースを使ったカード手品を見せとても不思議がってくれたのが、私が家族以外に初めて手品を見せた最も古い記憶になっている。ダブルフェースを使ったものだった。

1922年頃(8歳頃)の自宅

 小学時代には二人の科学の先生の印象が強く残っている。 一人は若く魅力的な女性で科学のセンスに長けておりCarlsbadの鍾乳洞にある鍾乳石や石筍の年代から地球の年齢は聖書に書かれている創世記より少なくとも一万年以上は古いと説明され驚いたことを覚えている。当時公立小学校の先生が聖書にある歴史に疑問を差し挟むことは容易でなかったからだ。一方、科学の訓練を受けてない中年女性の先生は宇宙船が月面に着陸することは絶対に無理だと教えていた。真空の宇宙空間ではロケットは機能しないからという単純な発想だった。ジュール・ベルヌやH. G. ウェルズのSF科学小説を当時愛読していたので宇宙旅行はいずれ到来するとの思いがありこの時いくつもの疑問を投げかけたものである。

 小学生の内に月刊雑誌の “Science and Invention” を読んでいた。ここには火星人の話、脳の働き、新しい工学技術、占星学や永久機関を否定する話などの特集記事の外、マジックに関する記事も頻繁に掲載されていた。Jeseph Danningerの連載コラムがあったかと思うと、Walter Gibsonによるコイン・ハンカチ・マッチ・カード等を使った記事を目にしていた。他にも新発明されたものや奇妙な特許についてのページなどあって愛読していた。

 母の兄弟にあたる叔父のOwenは静かな人だったが九九ならぬ二桁同士の掛算が頭に入っているすごい人だった。この彼がヒモを使った三種類の手品を教えてくれた。ヒモに通したリングを抜き取る現象、ボタン穴にヒモを通し両端を親指に巻き付けたまま外して見せる現象、四指にグルグルに巻き付けたヒモを解いてしまうもので、とても気に入ったおじさんだった。

1927年頃(13歳頃)の一家。 左からJudy(妹3歳), Willie Spores Gardner(母),
Martin, Jim Jr.(弟10歳), James Henry Gardner(父)

 高校時代にはチェスとマジックが趣味だった。 この頃父親が簡単なマジックを教えてくれた。 ナイフを使ってパドルムーブで演ずるものやハンカチの下にあったマッチの軸が消えてしまうものなどが印象に残っている。 ある日或る雑誌で “Tarbell Course in Magic”(訳注:マジックの通信教育として知られる)の広告を見つけ父親に購読をねだり、それを毎週楽しみに読んでいた。

 TVで見るスポーツは野球とテニスだけでフットボールは好きではなかった。 特に相手をバイオレントに打ち負かすようなボクシングのようなものはいまでも理解できない。 自分で行うスポーツは子供の頃のテニスと高校時代の体操クラブで当時前方宙返りや後方宙返りを身に付け、平行棒にも取り組んだ。

 これまで日常の小物を使ったトリックをいろいろ創作し多くの本を出してきたが演者として活動した経験はない。 もしマジックを職業にしていたら物書きにはなれなかったはずで演者にならなかったことは非常に幸いだった。唯一周囲に演じた経験といえば大学時代に百貨店でクリスマスシーズンのオモチャ売り場で客を集めてGilbertのマジックセットのデモをしたこと位である。 この時マジックは生の客を相手に何百回となく繰り返して演じて見せてこそ初めてうまく演じることができるようになるということを学んだ。

 大学はシカゴ大に入った。 最初はカリフォルニア工科大に入りたかったが二年間は教養課程をとらされることが判ったので、最終的に自由度が高く広範な領域の講座を学べる仕組みのシカゴ大を選んだ。そして学内での学生生活と学外でのマジックの世界を行き来する生活を送ることになった。 出会ったプロやアマにはWerner Dornfield、Johnny Platt、Paul Rosini、Eddie Marlo、Carl Ballantine、Bert Allerton、Paul Le Paul、Jack Gwynne等がいてレストランでランチを取りながら定期的に集まっていた。 そのほかにたむろしていた場所はJoe Bergの店とIrelandの店の二つのマジックショップだった(訳注:後者は現在のMagic Inc.)。

 大学院で1年学んだところでモノ書きを目指そうと心に決めたが、その頃父親の知り合いの石油の業界紙の編集長がアシスタントを探しているとの話があったためそこで最初の仕事を得た。 Tulsaは当時世界の石油ビジネスの中心地と言われたところで(訳注:Gardnerの元々の出身地、オクラホマ州)、各石油会社を回っては湾岸諸国での採掘状況などの最新ニュースを入手したり雑談の中からゴシップ記事をまとめたりしてモノ書きとしての一連を学んだ。 その後幸運にもシカゴ大学で仕事に就くことが出来、大学における科学研究成果を外部に配信する広報活動に携わった。

 父親は大学で地質学を学び博士号はDCのジョージワシントン大でとり、後に石油地質学に着目して石油探査の会社を興した。一方、自然を愛でる深い心を持っていてその関係の本で書棚が埋まっていた。 Tulsa Audubon Societyを設立したのも彼である。 科学の基本や自然現象の摂理をよく解説してくれており、その自然に対する愛情が自分の生涯の大きな原点である。

 戦時の兵役(海軍)は楽だった。 無線訓練校での広報業務に従事したり、護衛駆逐艦に乗船したりで、4年間というもの戦時でありながら非常に自由な環境で過ごすことが出来た。 兵役のあと再度シカゴ大で以前の仕事に復帰することもできたが、Esquire誌が短文の小説を買って掲載してくれたのが大きな人生のターニングポイントになった。 読者からの好意的な感想文が寄せられたからだ。この結果二作目を求められ“The No-Sided Professor”という珍奇な空想SF小説を提供した。 トポロジーの専門家が彼の論敵をメビウスの輪に閉じ込め消してしまうという突拍子もない話で、後にSFのアンソロジー集に何度も取り上げられることになったものである。 編集者がまもなく変わってしまったのでEsquire誌の仕事は長くなかったが、自分の文章が売れるという実感を得た貴重な体験だった。

 そして間もなく子供向けの廉価雑誌として企画された “Humpty Dumpty” 誌の寄稿編集者(contributing editor)になった。この雑誌を任せられた友人から声がかかったという経緯である。8年間に及ぶこの仕事は自宅でもできる部分が多くとても楽しいものだった。年10回の刊行であるがその中にHumpty Dumpty Juniorが活躍する冒険談や、親が読み聞かせる詩や子供への教訓を散りばめ、更には或る部分のページでは穴あけや折り畳みなどの細工を施して色々な遊びが出来るようにした。また “Scripta Mathematica” という一般読者向けの数理教養季刊誌に数理マジックを連載する機会にも恵まれた(後年これをまとめて “Mathematics, Magic, and Mystery” という本として出版した)。

 “Scientific American” での連載のキッカケは、オリガミ六角形(Hexaflexagons)の話題を耳にした際に、以前から接点のあったこの雑誌が興味を示すだろうと思って記事を持ち込んだのがはじめだった。 1956年12月号に掲載されるやすべての読者がこれを自作するといった現象がおきて大きな話題になり、すぐさま連載して欲しいとの要請があったのである。 新たに付けられたMathematical Gamesというタイトルはそのイニシャルが偶然にもMartin Gardnerのそれと同じで以後25年以上続くという歴史的に知られる長寿コラムになった。

 この連載のおかげで第一級の数学者と知己になることが出来、彼らが提供してくれる話題が更に人気を高めてくれる結果になった。 成功の最大の要因は私が数学の専門家ではなかったことである。 難解な内容のトピックを理解するのには苦労があったが、そのおかげで誰もが興味を持てるようにわかりやすく書くことができたと思っている。

 疑似科学に警鐘を鳴らす ”In the Name of Science” は最初注目されなかったがDover社がソフトカバーで再刊した途端に同社のベストセラーの一端を担うようになった。 異論を唱える人をゲストに呼ぶラジオ番組さえ出きたがそのおかげでさらにこの本は評判になった。 脅迫の手紙も送られFBIに協力を仰ぐ事態もあったが大事に至らず、他の同種の本を出す人も出てきた。この延長線上でCSICOPが出来 ”Skeptical Inquirer” の発刊となった。 啓蒙された民衆があってこそ初めて民主主義が成立つように偽りの科学を暴いて人々を正しく啓蒙するのが科学者の勤めである。 マジックの世界に馴染みのない科学者が世の中で一番騙されやすい人種でありその意味で友人のJames Randiは科学者を超えた、国家の宝とも言うべき役割をこの活動の中で果たしてきてくれている。

 思い出深いマジシャンには数学者のPersi Diaconisがいて色々なエピソードがある。また日本では芸妓以外に折る人がほとんどいなくなったオリガミの分野でLillian Oppenheimerの活躍ぶりは特記に値する。 息子3人も大学の数学者になって活躍中だ。 Bruce Elliotのおかげでニューヨークでも多くのマジシャンと友人になった。 James RandiをはじめとしてDai Vernon, Clayton Rawson, Paul Curry, Francis Carlyle, Frank Garcia, Jacob Daley, Walter Gibson, Oscar Weigle, Bill Simonなど数えきれないプロアマ達との行き来をした。

 女性にはもてないタイプである。 自己中心的に知的で、宗教は無関心、背が高いわけでもハンサムでもない。 敢えていえばSherlock Holmsに似ていると言えなくもない。 女性から見れば交際相手としてどこか違和感を感ずるタイプなのだろう。 ただCharlotte(夫人)だけは違った。Bill Simonが彼の彼女とその友達を誘って私と4人でデートした際のその友達がCharlotteだった。 彼女の特徴ある香り(香水ではない)がとても好ましくそれだけで恋に落ちるに十分だった。 最初で最後の経験だった。とても貧乏だったのが結婚への唯一の障害で、ある時ズボンの尻のところに穴があるのを見つけられてしまったほどだ。

 運よくその頃 “Humpty Dumpty” での定職にありつきプロポーズに踏み切ったというわけである。 当初はマンハッタンのThe Village地域で二カ所ほど移り住んだが犯罪も多くて危ないため郊外に転居し、その後Hastings-on-Hudsonで落ち着いた。”Scientific American” での連載が終わるまで住んだ家だ。

ニューヨーク郊外に移って最初に住んだ家で1961年頃。
左からJim(長男), Charlotte, Tom(次男), Martin Gardner

長く住んだニューヨーク郊外
Hastings-on-Hudsonの家の居間で1980年頃Charlotteと共に。

 Hendersonville (North Carolina)を老後の場所に選んだのは友人が素晴らしい村があるというので見に行き即座に気にいったからだ。 住むには快適ではあったが一番近いスーパーマーケットに行くのに車で狭く曲がりくねった村道を30分かけていかねばならず結局町の中心に近い所へと移転を二度繰り返した。現在次男が近くのAshvilleに住んでいて画家となっており、長男の方はオクラホマ大の教授になっている。 Eメールはやらないことにしているが長男にもらったApple Cubeでオンラインしており調べ事をする上で今やGoogleは必須のものになっている。

晩年のMartin

 妻も私も宗教はどの宗派にも興味がないが神の存在は信じるという哲学的な意味での有神論者であり死後の世界があることを望むものである。 愛読者の方は超能力を否定する私がそう考えていると聞くと一様に驚かれるが、旧約聖書に書かれた神については信じてないというだけであって、ビッグバン以降の宇宙をつかさどるものがまだ解明されていない以上、まだ人知の及ばないものを司る神のような存在があってもおかしくないという考えである。

 妻が2000年に亡くなったあと運転免許の更新が難しくなったこともあって86才になったのを機に介助付の施設に入ることにし、長男の家の近くのNormanの町(オクラホマ州)に移った。週に1回必要なものを買って届けてくれている。 現在、朝食後に薬を5錠服用する毎日を送っているが持病は主としてⅡ型糖尿病で薬でコントロールしている。血圧は低く、コレステロール値もまずます、視力は完璧である(40歳代で白内障の手術をしたがそれ以来レンズはそのまま)。いまこの文章をしたためているのは2009年10月21日の95才の誕生日である。

 まだまだ執筆は可能であるが、今までで一番重要な著作というと私の信条のすべてを吐露した ”The Whys of a Philosophical Scrivener” で、二番目はエッセイ集の ”The Night Is Large” である。


 彼の生立ち、性格、行動様式などを改めて読んでみて、氏の文章やマジックへの姿勢に早くから親しみを感じることができた理由がわかったようでとても嬉しくなった。 マジシャンの自伝というとかなり脚色を加えているものも少なくないが、石田天海、デビッド・デバントなどのそれと同様、自分の心情を吐露したとても親近感が持てる内容であり、正にタイトルにあるようにタネも仕掛けもない ”ありのまま(undiluted)の手品(Hocus Pocus)” ともいうべき生涯が綴られている。 ちなみに本文の執筆を終えて脱稿した際に書き加えた序文の日付は「2010年の春」となっていた。彼が亡くなったのはそれから間もない5月22日であった。


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