松山光伸

国際芸人の先駆者、ジンタローの生涯
第6回

渡英後に最初に出あったTANAKA氏の実像

 さて、ジンタローが契約を交わしたTANAKA氏であるが、この人物こそ英王室や子爵のお墨付きを得て「日本人村」イベントの開催を考え推進した中心人物であった。本名はタンナケル・ブヒクロサン(Tannaker B. N. Buhicrosan)、田中武一九郎と称することもあったとされる。彼は「日本人村」開催に向けて1884年に一旦来日するが、その時の様子を伝えた明治17年7月26日の郵便報知新聞の記事では日本人を妻とする蘭人として記されている。しかし、英国の複数の記事を見ると日本人として扱われており、また英国で生まれた子供の出生届にある父親の職業欄の記述ではそのすべてで日本人商人と申告していることから渡英前に日本で帰化していたと考えてよさそうだ。

 加えて、TANAKA氏の妻(日本人)は長崎県出身とされている(「1885年ロンドン日本人村」)。ジンタローも長崎出身であり、渡英前にジンタローと接点があった可能性もある。いずれにせよ、この辺の事実関係はいずれ明らかになるだろう。

ミカドのエンターテイナーを追って

 気になったままになっているのが、日本出発前の10才前後にミカドのエンターテイナーだった、ということの真偽である。これに関しては、新聞や雑誌に記事が見つからなかったため、ツテを頼って宮内庁の担当者にお願いし、当時の記録を当たっていただいた。その結果、この時期に天覧に供した演芸としては、陛下が有栖川邸に行幸された1887年(明治20年)5月7日に帰天斎正一が西洋手品を演じたのが唯一のものだったことが判った。また、大衆芸能ということに範囲を広げても、この直前の4月26日に外務大臣井上馨伯爵邸で歌舞伎をご覧になったことを以って天覧演技の嚆矢とされている(明治天皇紀第六)。それ以前は能楽中心の観劇であることも判り、これらの結果、ジンタローが渡航前に御前演技を行なったとは考えにくくなった。(注5)

 もう1つの可能性として考えられるのは、英国で演じられ、その後、米国や欧州でも評判になった「ミカド」という名のコミック・オペラの存在である。日本に題材を求めたオペラとしては「蝶々夫人」が有名であるが、「ミカド」は「蝶々夫人」に先駆け、ギルバート&サリヴァン作のオペレッタとして1885年3月初演のロンドンのサヴォイ劇場で大成功をおさめ、その後米国等の諸外国でも大ヒットし、ついには日本公演にまで至ることになったオペラである(現在でも欧米では時々再演されている)。はじめて日本を題材に取り入れたオペラであったこともあり、その舞台を見た日本人から「日本の風俗を正しくとらえてないことの問題」が相次いで報告され、また日本の皇室が題材になっているため不敬行為との観点から、日本での公演は実質的に不許可になったといういわく付きのものである。

 そして、このミカドのオペレッタでジンタローが一役果たした可能性が高いと考えられる。それは、「ロンドン日本人村」にいた日本人が、ミカド公演の出演者に対し日本人の立居振舞いについての指導をしていた史実があるからである(日本人村に雇われた日本人は1884年末には現地入りしている)。ジンタローは1887年とはいえ渡英後直ちに日本人村の最高責任者であるTANAKA氏(タンナケル・ブヒクロサン)と契約しているため、このミカドに関わった可能性は高いと考えるのが自然である。ただ、ミカドの2年近いロングラン公演は1887年1月で終了しているため、初演に出演した可能性は低く、それ以降に関わったと想定するほうが妥当だろう。

 従って、もし「ミカド」の宮廷のシーンで、ジンタローが、エンターテイナーとして演じたことがあるとすれば1887年のロンドン到着から米国に向かう1922年迄の間である。調べていくうちに、コベント・ガーデンにある国立劇場博物館(National Museum of the Performing Arts)にすべての劇場公演の記録が保存されていることを知り、館員の方に調査をお願いしたところ、色々な資料に当たってもらうことが出来た。ただ残念なことに、ロングランを続けたサヴォイ劇場での初演のみならず、1895年(フィフスアベニュー劇場)、1908年(サヴォイ劇場)、1919年と1921年(いずれもプリンス劇場)のいずれの公演記録にもジンタローの名は見つからなかった。主要な役回りであればいざ知らず、出演していたとしても一場面に顔を出すだけであれば記録には残らないとの指摘もあり、結局事実関係を特定するには至らなかった。なお、当時の台本は邦訳されており「喜歌劇ミカド:一九世紀英国人が見た日本(ウィリアム・シュウェンク・ギルバート著)、2002」という書になっているが、台本であるが故にセリフのない出演者に関する記述は見当らない。オペレッタ「ミカド」のDVDも入手し、ジンタローのジャグリング場面が入る余地があるかどうかを眺めてみたが、その可能性はあるとの印象を持つに留まっている。

ジンタローはどのようにして芸を身につけたか

 もう一つの疑問がこれである。現地での彼は、ジャパニーズ・ジャグラーとして記述されているが、多くのポスターではトップ・スピナー(曲独楽師)として宣伝されており、独楽が大きな売り物になっていた。また前述したように水流星という中国雑技の流れを汲む芸も身につけていることから、一人の特定の曲芸師から学んだということでなく、異なる技を持つ多くの芸人から教えを受け、工夫を加えて腕を磨いたと考えられる。

 「明治奇術史」という秦豊吉氏の貴重な私家本がある。ここには初めて日本に現れた外人奇術師として英国のドクトル・リン(Dr. H. S. Lynn)のことが触れられている。リンは1862年に長崎にやって来て在長崎の欧州人や島津藩・薩摩藩の人がその演技を一緒に見たとしているが、長崎滞在中に、曲独楽とバタフライトリック(蝶の手品)を習っていることや、曲独楽の芸は九州博多から出たものであることも記されている。従って、ジンタローはブロック芸以外にも渡航前に曲独楽の芸を身につける機会があったと考えられる。曲独楽ともなれば、道具作りやその調整法についても知識が必要であるが、実際、ジンタローは英国職人に日本製と同等の精度を持つ独楽を製作させようと試みている(前掲のストランド・マガジン誌に記述)。

 また、現地に渡ってからも、機会をとらえて腕を磨いていたはずである。前述の如く、セント・ジョージ・ホールに近い自宅を敢えて引き払い、日英博覧会の会場に歩いて10分足らずのところにわざわざ居を構え直したのはその表れではないだろうか。

仙太郎とのコンビの形成

 もう一人重要な人物との接点があった。それは太神楽の鏡味仙太郎である。仙太郎は明治15年、27年と、それぞれ別個の曲馬団に雇われアジア各国を中心に1~2年巡業したあと、明治30年(1897年)には自費でロンドンに渡り、明治34年(1901年)に帰国している。その間パリ等にも足を伸ばしているためロンドンでの正味滞在期間は4年弱と推定される(1929年10月3日71才で没す)。明治34年末の報知新聞に連載された「太神楽の洋行談」で仙太郎はロンドンで顔を合わせた日本からの10人程度の渡航芸人や、彼らが同宿していた下宿の話も紹介しているが、ここには若きジンタローの名は出てこない。

ジンタロー
写真19:Maruichi Brothersの兄貴分の
鏡味仙太郎

 ところが、後に英国紙を詳しく調べていくうちに、鏡味仙太郎とジンタローが一緒に活動していたことが判った。1899年春から1901年の春までの2年間、Maruichi Brothersの名で二人でペアを組んで出演していたのである(写真19)。仙太郎は丸一の家紋から付けた丸一大神楽曲芸の10代目家元となる人物で、ブロック芸等を得意としていたジンタローを誘い、時々Maruichi Brothers(丸一兄弟)として出演したというわけである。ちなみにMaruichi Brothersの名が初めて新聞に見えるのは1899年で仙太郎は当時40才。一方、ジンタローの方は24才であったが滞英生活は12年と人生の半分に達しており現地事情に精通し加えて言葉にも不自由しなくなっていた。仙太郎としてはまたとない助っ人に出会ったことになるが、ジンタローも「傘の曲」をこの頃仙太郎からお礼として教えてもらったものと考えられる。ただ、これだけ一緒に活動したにもかかわらず仙太郎が「太神楽の洋行談」でジンタローに触れていななかったのは不思議である。他人の力を借りたことに触れると自分の活躍が目立たなくなるという思いもあったであろうし、ジンタローは自分の弟分に過ぎないと考えて触れなかったとも思えてくる。

 ところで彼らの出演記録をつぶさに追っかけたところ驚くべきことを見つけた。それは1900年(明治33年)8月24日の Birmingham Pictorial and Dart紙に出ていたGaiety Theatreof Varieties劇場の演目広告である。何と、そこにあったマルイチ兄弟の演目に空中ブランコ芸人(Trapeze Performers)と書かれていたのである。
これは何かの間違いで、彼らの扱うボールや独楽が空中に舞う様子を比喩的に空中ブランコになぞらえたものとも思ったが、知り合いの英国人に意見を求めたところそのような解釈は考えにくく、やはり空中ブランコを使った芸だろうとのこと。
演技の様子を記した記事がないので実際に空中ブランコを演じたのかどうかは確認できていないが、少なくとも空中ブランコに接したはじめての日本人だったのは間違いないようだ。

 ジンタローの曲独楽も他の渡英日本人曲芸師から学ぶなどして身につけたと思われ、また、長いロープの両端に水がめをぶら下げて振り回す「水流星」はやはり1900年頃来英して活躍したキクゾウに習ったのではないかと推量される。

ジンタロー資料
写真20:マスケリン一座に参加した若きGintaro(26才頃)
(所蔵:Peter Lane氏)

 とはいえ、ジンタローは着々と現地の興行界に根をはり、1901年の頃ともなると、既にブロック芸の王様(The King of Block Manipulators)と呼ばれ、曲独楽、傘の曲、水流星等でも評判を獲得し、マスケリンとクックの一座に加わってポーツマスにも出没するようになっていた(写真20)

注5: 天覧芸能としては、正確には、明治19年11月1日に行われたチャリネ曲馬団が最初である。賎民と認識されていた芸人の演技を天覧に供することなど考えられなかった日本の風土において、外国人芸人が最初の栄誉を担ったことになる。

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