むしろ、本当の謎は、12才の少年が日本人村の事業責任者だったタンナケル・ブヒクロサンと契約を結んだ後、どのように生活基盤を確保したかである。日本人村は既に閉場の瀬戸際にあり、そこでの演技で生計をたてたとは考えられない。サポートしてくれる人がいない限り浮浪者になるのは時間の問題である。衣食住全般にわたって何をするにも意思疎通に不自由するばかりか、芸の練習や衣装・道具のメインテナンス、合間をぬっての食事や洗濯、種々の興行師との交渉や契約など、やらなければいけないことは山とあるはずである。
帰化申請資料には継父と喧嘩別れしたことが記されていたが、そこには別れた時期は触れられていない(後でわかってくることになる)。最初のうちはマネージャー役として渡英した義父もジンタローと一緒にタンナケル・ブヒクロサンに雇われていたのであろう。その間、義父はジンタローの支えになると同時にブヒクロサンの事業に関わる要員として仕えていたものと思われる。ただ日本人村博覧会の経営がジリ貧になっていく一方、ジンタローの方は英国での生活に馴染んでいくため、義父アイキオ氏の存在価値は薄れていくのである。結局のところブヒクロサンの資力が低下し、ジンタローに生活力がついてきた頃、ついに喧嘩別れのような形で義父は英国を離れるのである。
いずれにせよ、そこに至るまでの間はブヒクロサンが彼らの大いなる後ろ盾となってくれていた。そして、ブヒクロサンが受け入れようと思った背景には、もともと氏が大の日本贔屓だったことに加え、ジンタローと同郷の夫人が積極的に後押ししてくれたものと推測できる。となれば、ジンタローの足跡を追跡するには、ブヒクロサンの足跡を追いかければいいのではないだろうか。
英国到着後のジンタローの足跡を調べるには、タンナケル・ブヒクロサン一家の住居の動きを追えばよいとの確信を得、まずは日本人であるブヒクロサン夫人の帰化記録に当たることにした。ジンタローの足跡調査と同じように、それによって帰化時点の住所が判明すると考えたからである。ところが公文書館にはその記録は見つからなかった。館員の解説によると、「正規の帰化手続であれば、公文書館に資料が保存されているが、以前は帰化案件ごとに議会の承認が必要だったため、認可までに途方もない時間がかかっていた」とのこと。そういった経緯から有料で市民権をとることを請負う簡略な仕組みが出来(それでも法的には有効)、その結果公文書館には大多数の帰化記録が保存されていないという話であった。
一方、他の手掛りを求めているうちに、日本人村に関する論文をブヒクロサンが著作にしていることが判った。その書のタイトルは、Japan, past and present : the manners and customs of the Japanese, and a description of the Japanese native village (promoted by T. Buhicrosan) erected at Albert Gate, Hyde Park, 1885 / by O. Buhicrosanという長いもので、何と、北海道大学附属図書館にあることを突き止めた(大英図書館によれば、この本は全英でも3冊しか現存しておらず大英図書館にもないとの話)。ここで、目にとまったのは、著者が ”O. Buhicrosan” という人物名だったことである。誤記かとも思い、コピーを入手した結果、タンナケル・ブヒクロサンは日本人村(Japanese Native Village)のマネージング・ダイレクター(英国では社長職を表す職位)で、もう一人の「O. ブヒクロサン」の方は日本人村イベントの共同出資者のような立場と思われた(写真21)。そして、この本の前書きを見て判ったのは、日本の外交当局がこの展示会に感じていたものとは裏腹に、極めてまじめに日本の姿を紹介するべく意図されており、王室や関係方面の多くの賛同を得て実現に漕ぎつけたものだったということである。ただ、タンナケル・ブヒクロサンと著者であるO. ブヒクロサン氏との関係が新たな疑問として浮上したばかりか、その序文の中で著者は自身が日本人であるとも述べており、むしろ謎が深まることになった。
もう一つ、網に引っかかったのは英国における1901年のセンサス(国勢調査)である。英国では10年毎にセンサス調査を行なっているが、当時オンラインのデータベースになっているのは唯一この1901年3月31日に実施した国勢調査であった。そこでブヒクロサンの姓で検索したところ、ブヒクロサン名の4人がその調査の当日にトテナム(Tottenham)行政区のアパートにいたのが見つかった。ブヒクロサン姓のこの4人は、父親の名を継いだタンナケル(Tannaker、26才)、その弟であるランスロット(Lancelot、17才)、妹のスー(Sue、11才)、加えて年配のルース(Ruth、50才)で、このルースには「日本生まれで英国に帰化した人物」という注釈がつけられていた。ルースという日本名は考えられないため、これは家族内で使われていた愛称に違いなく、また年齢から考えてこの人物こそブヒクロサン夫人ということになる。また他の3人はすべてルイシャム(Lewisham)生まれであることが記されていた。ただ国勢調査のあったこの日の記録では、Tannakerは同居人(Lodger)であり、他のルース、ランスロット、スーはいずれも訪問者(Visitor)とされていて、たまたまその日この家を訪れていて調査の対象になったことが読み取れた。
センサスに記されていた年齢を元に彼らの誕生年を逆算すると、ルースは1851年前後の生まれ、タンナケル、ランスロット、スーはそれぞれ1875年、1883年、1890年前後の生まれということが判った。そこで、これを頼りに前述した「1837年以降の戸籍総合台帳」に3人の兄弟の出生届が実在するかどうか調べることにした。というのも国勢調査というのは調査日にそこにいた当人の自己申告を記録したものでしかなく確実性に欠けるからである。確認の結果、ランスロットのフルネームは、Lancelot Reynoldo B. Buhicrosan、スーはOsnisan Buhicrosanということがわかり、タンナケルを含めた3人がルイシャム生まれであることも追認できた。スーという呼び名は愛称で正しくは「おすにさん」という名であった。また日本生まれのルースには英国に出生届が存在しないことも確認できた。
ここで不思議なのは、センサスに記されていた内容である。当時の調査記録の原本コピーを取り寄せて確認すると、ブヒクロサン姓の4人が見つかった世帯にはバプティ(Bapty)姓の若い夫婦(夫19才、妻21才)とその生まれたばかりの乳飲み子が住んでおり、更に仔細に見ると、そちらの若い方が所帯主で、そこに同居しているタンナケルを、ルース、ランスロット、スーの3人が訪問しているという状況が読み取れたのである(写真22)。ただ、タンナケル B.N.ブヒクロサン本人はこの1901年のセンサスに名前が出てこないため、この時点で既に故人になっているものと想定された。