ところで、先に入手した結婚届には、前述の情報以外にも、その届出をした時の住所が記されていた。それを見ると、1906年の11月の時点では、ロンドンの中心部に近いグレート・ティッチフィールド通り(Great Titchfield Street)に住んでいたことが確認できた。そこで、その場所を探してみると、正にセント・ジョージ・ホールまで歩いて数分のところにあることが判った。この地区はメリルボーン区が当時管轄していたが、現在の行政区はウェストミンスター(Westminster)行政区であることを突き止め、そこの史書係に調べてもらったところ、確かにその当時ジンタローがそこに住んでおり納税者名簿に載っていたのが見つかった(写真16)。加えて、そこには前年の1905年4月24日に引っ越してきたことも判った。セント・ジョージ・ホールでの彼の初演日は1905年4月22日であったから、如何にこの出演契約が性急で、慌しい引越が余儀なくされたものだったかが伺われるのである。
一方、1910年の日英博覧会の開催期間は5月14日から10月29日迄であることが、日本の農商務省発行の事務局報告(東京大学総合図書館所蔵)から確認できた。ジンタローはこの開催場所から目と鼻の先に少なくとも1910年の4月には移っている(写真17)。何故、劇場に近い住居から、わざわざこのシェパーズ・ブッシュに移り住んだのか。きっと、この博覧会に出演するために日本から来る多くの曲芸師との交流や面倒見、更には色々な技を学びとるための引越しだったのではないだろうか。というのも、ここには16代目松井源水以外にも、期間中、Namba(難波)一座、Kishi(岸)一座のそれぞれによる曲芸や軽業も演じられているほか、Bicho(美蝶)・Murai(村井)一座によるマジックやイリュージョンも行われていたことが英国側の公式報告に出ているからである(注4)。また、博覧会で演じる芸人を人選したりまとめたりする役割は、国際興行師の櫛引弓人氏にすべて委ねられていたことが、この事務局公式報告書に記されていた。となると誰を送り込むかということはこの人物の目利きや人脈によるところが極めて大きいことになり、更なる興味をかきたてられる。また、博覧会に出演する芸人の宿は会場周辺の借家や会場内の仮設宿舎を使うことなども報告書に記述されていた。となるとジンタローの家にやっかいになった曲芸師もいたに違いない。
相変わらず、姓名の漢字表記が分からないままにあった。そこで、ロンドンにある日本人会(ザ・ジャパン・ソサエティ)や在英日本大使館に当時の資料や在留日本人の記録の照会を試みたが、そのような記録は元々保存していないとか、5年以上経過した記録は破棄していると一蹴される結果に終わった。外交史料館でも引き続き、在留日本人の死亡届、結婚届、帰化届が当時の現地領事館から日本に報告されていないかどうか確認してみた。史料館の方からの調査協力も得られたが、それでもなお旅券発行記録が見つからなかったことから、沢田豊(前回の注1)の渡航経緯と同様、何らかの事情があってジンタローも旅券がないまま出国した可能性が高くなってきた。
日本でさえ出国タイミングの特定が困難だったため、イギリスの国立公文書館の調査員に有料で入国書類を調べてもらうことも無理と諦めた(英国への入国日や入国港の手掛りがなかった)。一方、新聞や雑誌への記事掲載を考えた。日本側で何らかの情報が発掘できるのではないかとの思いからである。日本経済新聞文化欄への記事掲載の可能性について相談をしたところ、前向きに受け止めてもらえ、ほどなく実現できたことは幸運であった。ただ新しい発見につながる情報は最後までもたらされなかった。
ジンタローの弟が首相の秘書であったという話に関しては、関東大震災を起点にその直前の政権を担っていた原敬・高橋是清・加藤友三郎3代に狙いを定め、その首相在任時の国政史を紐解きながらミズハラ姓の秘書の存在について調べ、そのかたわら、盛岡の原敬記念館への問合せも行った。一方、明治7年(1874年)の創刊以来のすべての記事が収録されている読売新聞のCD-ROMを使った検索や、大正期の紳士録からミズハラ姓の秘書の調査も試みた。ところが、いずれの調査においても、それらしき人物は分からずじまいという結果となった。
市民権を得た時期そのものは国立公文書館への問い合わせによって比較的早く把握できたが(市民権取得は1919年10月)、メールでのやりとりの際に少し気になる表現があった。それはジンタローの名前にAIKIOというミドルネームのようなものがあるように伝えてきたからである。そこで現物を確認すべく帰化証明書を取り寄せることにしたが、そこには思いがけない情報が記されていたのである。というのも帰化したことを示す証明書だけでなく、申請に際して提出した一連の書類が一緒に付いていたのである。そこには次のような背景事情が記されていた(写真18)。
などである。兄弟がないという記述は、カリフォルニアの記事(弟が首相の秘書)と矛盾するが、母親がアイキオ氏と再婚したということで、アイキオ姓の兄弟について述べた可能性もある。
この中で、特に注目されたのは、ジンタローがアイキオ氏の助力を得て、日本人村のTANAKA氏と契約したことである。芸人一座の一員として渡英した記録もなければ、かといって一少年が無鉄砲にあてもなく渡航することも考えられないことから、渡航を決意した背景が謎のままになっていたが、上記の帰化申請書類の入手によっておぼろげながら渡航事情が見えてきた。幸いなことに、ここに出てくる日本人村のことは、「1885年ロンドン日本人村(1983、倉田喜弘著)」の中で詳細に描かれている。即ち、日本人村とは1885年にロンドンのナイツブリッジ地区に設営された通称「日本風俗博覧会」のことで、当時注目度が高まっていた日本に焦点をあて、技術者や職人を招聘してその高い技術や手作りの品を展示実演する博覧会として企てられたものである。とはいえ、万国博覧会や日英博覧会のように国のレベルで正式に推進したものではなかったため、日本政府としては身分の低い職人が雇われて国体を汚す恐れが強いと懸念し、その開催を阻止しようとしたいわく付きのものであった(英国側ではザ・タイムズ紙が1885年1月10日号で極めて好意的に紹介するなど対照的であった)。ここで問題になるのは、ジンタローが渡英し、TANAKA氏と契約したのが1887年の何月頃だったかである。というのも日本人村の運営は種々の事情で行き詰まりつつあり、1887年になると店じまいのタイミングを見定める時期にあったからである。
ところで倉田氏の書の中に海外渡航に関するもう一つの重要な記述があった。それは「明治11年の海外旅券規則の交付後は旅券の交付を受けるかどうかは本人の自由意志とされ、旅券なしでの渡航は刑罰の対象にはならなかった」という事実である。となれば、ジンタローの旅券発行記録が見つからなかったのも不思議なことではない。なお、後日の調査で分かったことであるが、海外旅券規則は不携帯出国時の罰則規定等を盛り込んだ改正の建議が2回にわたってなされたがいずれも廃案になり、1900年(明治33年)になってやっと改正に至っている。なお、この辺の事情は柳下宙子氏による「戦前期旅券の変遷」(外交史料館館報第12号)でも確認できる。
ただ、帰化申請資料を見ると、ジンタローは1915年3月にロンドンの日本総領事館で正式にパスポートを発行してもらっていることが記されていた。やはりパスポートがないと英国領以外へのツアーをしようとする際など何かと支障があったに違いない。
注4:
英国側の公式ガイドブックにある「16代目松井源水」というのは本名室谷米吉のことであるが、
彼はその後英国に留まり現地で没することになる。
また、ここに出てくる「美蝶」とは初代一徳斎美蝶(本名山口峯吉)のことである。
1910年の日英博覧会の記録を調べてみると235人もの職人や芸人を余興催事として派遣しており、その内、軽業25人、奇術11人、太神楽6人、独楽廻し1人と、演芸関係の出演は43人に及んだ。