土屋理義

マジックグッズ・コレクション
第30回

小天勝は何人いたのか?

明治後期・大正・昭和初期の三代にわたり、絶大な人気を博した稀代の女流奇術師・初代松旭斎天勝(1844-1944)。その後継者候補あるいは一番弟子として、天勝の名を借りた小天勝は何人いたのでしょうか?

1.君子が名乗った小天勝

 「小天勝」を最初に名乗ったのは、大正4年(1915) 4月、天勝一座を突然退団した君子(1897-1920、本名・萩原君雄、高知出身)でした。一座娘子連(じょうしれん)の一人で、天勝が一番目をかけていた君子(入座1912年、退座時18才)が、自転車曲乗り、ギター伴奏を担当していた君子の兄の萩原秀長、娘子連の足立鶴子(いずれも柿岡曲馬団の出身)等と共に独立したのです。

<図1> 初代松旭斎天華(初代“小天勝”)の絵葉書

 君子は「松旭斎小天勝」と名乗り、5月に入り浅草・富士館で「新時代の大魔術-新帰朝初舞台」と称して独立興行を開始します。その後、大阪道頓堀朝日座(6月)、京都四条南座(7月)、岡山高砂座(7月)と「小天勝」の名で興行を続けました。

<図2> 松旭斎小天勝としての初興行チラシ(浅草・富士館、大正4年(1915)5月)

 これに対して大看板「天勝」の名を無断で名乗るのは不届きとして、天勝側から抗議が出て、小天勝側は結局これを受け入れ、翌大正5年(1916) 1月からの浅草・富士館の興行から「松旭斎天華(てんか)」と改名する“小天勝事件”が起こったのです。
 従って君子が「小天勝」を名乗ったのは、わずか8カ月でした。
 天華一座は同年4月から台湾、上海、ジャワ、シンガポール、インドと海外巡業を続けましたが、天華は大正9年(1920) 9月に病死、わずか23才の若さでした。

2.徳子・小天勝となる

徳子(1901-1992、本名亀山徳子、東京日本橋出身)が天勝一座に入り、初出演したのは明治44年(1911)5月3日から6月末まで開催された「天勝一座旗揚げ興行」(浅草・帝國館・・・後の浅草松竹映画館)で、徳子10才の時でした。この時の写真が、天洋著「奇術と私」に掲載されています(173、174頁)。天一一座が明治44年1月に「天一隠退披露興行」(赤坂演技座)を最後に解散、新たに天勝一座を立ち上げた時で、当初は天松(天洋)の他に、天花と百合子等が天勝を支えていたことが写真でもわかります。その中で、小さな可愛らしい女の子が徳子です。ネタっ子の徳子が、写真に収まっているのは、特別な扱いを意味します。

<図3> 松旭斎天勝・旗揚げ興行(左から天花、天勝、徳子、百合子)
(浅草・帝國館、明治44(1911)年5月)

 君子(後の初代天華)が天勝一座を去って小天勝を名乗ったのは、大正4年(1915) 5月の浅草・富士館からですが、これに対抗するように、天勝は大正4年(1915)6月21日からの「国民新聞社主催・家庭博覧会余興-天勝一座大奇術番組」(上野公園)の公演から、初めて娘子連の一員だった徳子に小天勝を名乗らせています(図4参照)。

<図4> プログラム「娘子軍の小奇術」の中に「小天勝」の名前

プログラム裏面

 さらに徳子は、野呂辰之助と天勝が結婚すると、その養女になっているのですが、婚姻時期がはっきりしません。おそらく天勝一座が天二、天洋一座に分裂し、天勝一座にしっかりとしたマネージャーとして野呂が必要とされた明治45年(1912)の入籍と思われます(結婚披露宴は山谷の「八百善」)。あるいは、君子の「小天勝」呼称に対抗して、徳子の「養女」と「小天勝命名」をほぼ同時に行った可能性もあります。
 徳子は美人で背が高く、声量など年に似合わず娘らしいところがあり、利発な女の子でした。
 しかし、徳子には右手の人差し指と中指に障害がありました(生まれつき人差し指と中指がくっついていた)。その指で指先の技がものを言う手品を行うことは、徳子にとって大変な困難があったものと思われます。公演プログラムの中で、徳子(小天勝)の出演が見られるのは、娘子連の合奏(マンドリン)、踊り(ダンス)、劇、水芸でした。
 私の父(旧姓・鈴木四郎)は、一高・東大生時代に天勝に大変可愛がられ、大正7年(1918) 頃の前後数年間、天勝の楽屋や稽古場のあった天勝の自宅(浅草区福井町2丁目3番地)に自由に出入りし、その時の一座の人々との関わりを思い出話として「奇術日記」として手帳にメモを残しています。その中で、5才年下の徳子のことを、「徳ちゃん、手品ダンス洋楽バレー、いろいろやると皆中途半端で・・・」と記しています。
 徳子は、その後「小天勝」を名乗り続け、大正13年(1924)1月から大正14年(1925)4月の米国巡業中も、「小天勝」の名で出演しています。

<図5> 米国に向かう船上で、おどけたポーズを取る野呂と座員たち、
徳子は左から2番目(大正13年(1924))(徳子の孫の塚本裕子さん提供)

 大正15年(1926)8月1日からの浅草観音劇場での「松旭斎天勝一座特別記念興行」の出演者の中に、踊子として小天勝の名があり、これが徳子の小天勝としての最後の出演でした。
 徳子が小天勝を名乗ったのは、何と11年間の長きにわたるものでした。
 その後、徳子は天勝一座を退団、大阪毎日新聞記者で、野呂辰之助発案の「天勝野球団」のコーチになっていた小野三千麿(慶大野球部出身)と結婚、三女をもうけ91才でその生涯を終えました。

3.二代目天勝になるはずだった小天勝・松子

 昭和2年(1927)の秋、天勝が長崎に興行に来た時、一座に入ったのが14才の坂田タマ子(1913-2019)でした。タマ子は松子の芸名をもらい、師匠の身ぶり、手ぶりを読み取って上達も早く、やがて天勝の部屋付きの秘蔵っ子となります。

<図6> 「長崎の松ちゃん」と呼ばれた頃の松子(1930年)
(松子の長女の平田聖子さん提供)

 昭和9年(1934)春、50才になった天勝は「引退披露特別興行」を始めるとともに、二代目候補として古参の五人の弟子に、新しい芸名を与えました。天勝の姪の絹子には正天勝、一才年下の松子に小天勝、琴江に松天勝、竹子に竹天勝、島子(廣子の妹)に梅天勝の命名書を渡します。しかし次第に、二代目は姪の正天勝と、芸達者な小天勝に絞られていきました。
 小天勝(松子)は昭和11年(1936)3月封切りの天勝映画「魔術の女王」に出演しており、同年8月の札幌・寶榮座のプログラム「小奇術」五人の中の一人にも「小天勝」の名が見えます。

<図7>札幌・寶榮座のプログラム(昭和11年(1936)8月14日)

 しかし翌昭和12年(1937) 4月10日付の朝日新聞と都新聞に「愛弟子小天勝が二代目を襲名・・・」とすっぱ抜かれ、しかも4月21日から28日の新橋演舞場の公演は「二代目襲名披露」と出てしまいました。小天勝(松子)にしてみれば、天勝の情けは身にしみて嬉しく光栄ではありましたが、正天勝は肉親の姪であり、その人を差し置いて名立たる天勝の二代目を継ぐことは、いかにも荷が重いという気持ちでした。そして苦渋の決断の末、とうとう置き手紙をして故郷の長崎に帰ってしまったのです。

<図8> 絹子の二代目天勝襲名と、二代目を辞退した小天勝の新聞記事・
写真は正天勝(絹子)(都新聞、昭和12年(1937)4月18日)

 天勝は大いに驚き怒りもしましたが、襲名披露が間近いため、絹子の父で直弟の栄太郎と絹子を説得して二代目天勝とし、これが最後と頼んで小天勝(松子)を長崎から呼び戻し、二代目襲名披露公演にこぎつけたのでした。

<図9> 二代目襲名披露特別公演、左から二代目天勝(絹子)、天勝、小天勝(松子)
(昭和12年(1937)4月)

 従って松子が「小天勝」を名乗ったのは約3年間ということになります。
 小天勝はその後中国に渡り、北京の芸術学院で、一座にいたとき習得した日本舞踊を教えます。終戦後は長崎に戻り、花柳寿山として大成、日舞の銀扇会を創設(現在は長女の花柳昌太女師が主宰)、昭和36年(1961)には長崎マジッククラブ会長、同48年(1973)には日本奇術協会顧問も務めました。令和元年(2019)12月末に、106才で天寿を全うしています。

4.映画「世紀は笑ふ」の中の小天勝

 昭和16年(1941)に、日活から公開されたのがバックステージ物の喜劇映画「世紀は笑ふ」(監督・マキノ正博)です。天勝が実名で特別出演、小天勝お雪役には、元宝塚スターの轟夕起子が出演しています。小天勝はマジックの「ミイラの棺」や、「人形の家」を演じ、主人公の一人の杉野凡作(杉狂児)とダンスを共演しています。

<図10> 「世紀は笑ふ」の中で「人形の家」を演じる小天勝(轟夕起子)

5.ニセ小天勝

 初代天勝のニセ者と同様に同時期、「松旭斉小天勝」、「天長斎小天勝」などと名乗るニセ小天勝が出現していますが、これらの女流奇術師の詳細は省略します。

(参考文献)
樋口保美編「見世物興行年表・松旭斎天勝、初代松旭斎天華」(ネット掲載中)
河合 勝「日本奇術資料大事典」(東京堂出版、2023年)
塚本裕子「松旭斎天勝一座に青春を生きた祖母・徳子」
(女性史研究ほっかいどう第5号、札幌女性史研究会、2015年)
大喜タマ子「花の群像-松旭斎天勝一座の想い出」(日本紙工印刷、2003年)
松旭斎天洋「奇術と私」(テンヨー、1976年)

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