土屋理義

マジックグッズ・コレクション
第13回

日本人マジシャン?PRINCE KUROKIのブロマイド

 20世紀の初め、“PRINCE KUROKI”という名の日本人マジシャンがフランス、イギリスを中心に活躍したのをご存じでしょうか?①は着物姿に身をつつみ、両手の親指を指枷で固定し、リングを指に通している(いわゆる指抜き)ポスターです。KUROKIは実はイギリス人とフランス人の両親を持つフランス人で、本名をフレッド・ブレチン(Fred Brezin、正確にはMax Fred Brezinsk・・・1886年~1950年)というマジシャンでした。

KUROKIのフランスでの公演ポスター
① KUROKIのフランスでの公演ポスター

 ②のブロマイドは、中央がお客に投げてもらったリングが固定した両親指を貫通している演技、右上は袋に入れたシルクが消失してパラソルの骨に移るマジック、左上ははっきりしませんがシルクと紙テープ、右下が8本のチャイナリング、左下がパドル上のマークの移動の演技です。指抜きは当時ヨーロッパで公演した日本人奇術師・天一の得意芸-サムタイの影響でしょうか?

リングの指抜きのブロマイド
② リングの指抜きのブロマイド

 ③は大きな屋外の壁に公演案内が貼られたもので、 「“PRINCE KUROKI”-この偉大な、そして唯一の有名な日本人マジシャンを観よう」と書かれ、 その前にKUROKIが立っています。壁の宣伝広告の左右には上記①のポスターが貼られています。 このブロマイドの右下に彼のサインが入っていて、場所はイギリスのブラックプールと思われます。

巨大広告の前に立つKUROKIのブロマイド(サイン入り)
③ 巨大広告の前に立つKUROKIのブロマイド(サイン入り)

 ④は1907年9月12日にフランス北西部の古都ルーアンで公演されたロッシュ・サーカスのプログラムです。空中体操やビリヤードボールの妙技、コメディアン等にまじって、イリュージョニストとしてKUROKIがトリを演じています。

フランス・ルーアンのプログラム(1907年)
④ フランス・ルーアンのプログラム(1907年)

 ⑤はパリの20世紀劇場で1911年5月6日から8日にかけて公演を行ったオーケストラ付きの音楽コンサートのプログラムです。最後の「マダムの父」の喜歌劇の前に、幕間演芸として日本人のマニュピレーター、イリュージョニストKUROKIの名前が載っています。

パリの公演プログラム(表)(1911年)
⑤パリの公演プログラム(表)(1911年)

パリの公演プログラム(裏)(1911年)
⑤パリの公演プログラム(裏)(1911年)

 1912年にはイギリス・スコットランドのAyr Gaiety劇場でもKUROKIの名で演じた記録があります。20世紀初頭はチャンリンスーやOKITO、グレート・アレキサンダーなどの東洋風マジシャンが一世を風靡しましたので、彼もKUROKIという日本名を名乗ったのでしょう。 それでは、どうして名前がKUROKI(黒木?)だったのでしょうか?これは私の推測ですが、1904~05年の日露戦争で勇名をはせ、大国ロシアを打ち破った司令官として欧米でも広くその名が知れ渡った、黒木為楨(ためもと)大将の名前を使ったのではないでしょうか?

 しかしその後日本人マジシャン“KUROKI”の名前は興行界から消えます。次に彼の名前が世に出てくるのは、1923年12月号のイギリス奇術雑誌“Magic Wand”に紹介された本名のFred Brezin(当時37才)としてです(⑥)。ロンドン・コロシアムでの公演内容は、紙テープの復活、ウォンドの消失と出現、20世紀シルク(紙袋に入れた3枚のシルクが消え、観客が保持している2枚のハンカチの間から出現)、そのシルクを使ったパラソル・マジック、カード、四つ玉、卵のプロダクション、ポケット・ナイフではなく指を使ったカード刺し、ロープとリングを使ったマジックなどでした。ものすごく早口なブロークン・イングリッシュのせりふで、ユーモアが一部のイギリス人には多少下品な印象を与えたようですが、口上が非常に面白かったと評されています。

“Magic Wand”に書かれたプログラムの内容(1923年)
⑥ “Magic Wand”に書かれたプログラムの内容(1923年)

 1938年11月12日付けの”World’s Fair”には、イギリス・バーミンガムのアストン・ヒポドローム劇場に出演した際のインタビューと共に、Fred Brezinの経歴(当時52才)が書かれています(⑦)。それによると8才から学校仲間にマジックを見せ、14才からプロマジシャンとなってその後の持ちネタとなるウォンドの消失と出現を演じ、20才台初めから30才台半ばまで日本人マジシャン”PRINCE KUROKI”を名乗り、栄誉ある賞をもらったこともあるようです。

”World’s Fair”の紹介記事(1938年)
⑦ ”World’s Fair”の紹介記事(1938年)

 その後(筆者注:おそらく1920年頃から)、彼は本名のFred Brezinとして活躍しました。各国で公演し8ヶ国語のせりふをあやつり、そのうち7ヶ国語は読み書きはもちろん流暢に話すことも出来たとのことです。 バーミンガムでの演技は、ティッシュペーパーの復活、観客に手伝ってもらいながらのカードや卵の出現、リンキングリング、体に縛りつけたロープからの輪抜けなどの、いずれも彼のオリジナルな手順のマジックでした。そして手伝ってもらった観客にお礼を言う時、彼は観客たちのポケットから密かにスリ取った20~30の品物を取り出し、人々をびっくりさせたのです。
 ”World’s Fair”の批評は最後に次のように書かれています。「良いコメディーと巧みなマジック、そして完璧なショーマンシップを愛する人々は皆、Fred Brezinの演技を見ることを強く勧めます。」

 ≪ 第12回                       第14回