「フー・マンチュー」の名を聞いて、すぐに誰だか分かるマジシャンは少ないと思います。オランダで宮廷奇術師の家系として18世紀から20世紀まで続いた奇術師一族の6代目であり、中国人の衣裳に身をつつみ東洋風マジックを演じた有名なオキトの息子、デビッド・トビアス・セオドール・バンバーグ2世(1904~1974)の芸名です。
フー・マンチューのポスター |
デビッドは英国で生まれ、4才の時に父オキトのロシア公演で、中国人少年の役で初めて舞台に立ちます。その後家族と共に米国に移り、父オキトのおかげでケラー、サーストン、フーディーニ、ホラス・ゴールディンなどの、当時一流のマジシャンの演技を目にします。父のオキトは引退してニューヨークに居を構えますが、若いデビッドは将来一座を組んで、大マジックショーを演じたいという夢を抱き続けました。
成人してからはSyko(サイコ)と名乗ってサイキック・マジックを演じ、ヨーロッパに渡って手による影絵(シャドーグラフィー)を演じました。そしてオーストリアのウィーンでグレート・レイモンドというマジシャンのアシスタントになりブラジルに渡ったのが、彼のその後の運命を変えます。レイモンド一座を離れた後も、デビッドはラテンアメリカに残ることを決心します。
そのような中で1928年、世界ツアー中の大スター・ダンテ一座がアルゼンチンのブエノスアイレスで、多くのイリュージョンを含むオリエント・マジックの長期公演を行って大盛況を博します。それを観ていた映画配給会社の重役が、イリュージョンは金になると確信し、劇場にいたデビッドに「ダンテのようなショーをやってみないか?」と誘いをかけたのです。
二つ返事で承諾したデビッドは、父オキトと同じように中国人名の「フー・マンチュー(Fu Manchu)」という芸名で、異国情緒豊かな東洋風のマジックを演じる一座を組み、中南米からスペイン、ポルトガルまで公演を行います。それまで数々の優れたイリュージョンを見てきて、その真髄を心得ていた彼は、美人のアシスタント達と豪華絢爛な東洋の衣装、完璧な舞台装置、そしてユーモア溢れるせりふとストーリー性のある不思議なマジックショーを作り上げ、大成功を収めていくのです。そしてラテンアメリカで長きにわたり、最も有名な大マジシャンの一人になります。
写真はアルゼンチンの大都市ラザリオにあったラ・コメディア劇場で、1950年7月31日から8月18日までの19日間にわたり公演された、フー・マンチューとそのグレート・レビュー・カンパニーによる「サタンの娘」というマジックショーの劇場プログラムです。18時30分からのファミリー向けと、22時からは夜の部の1日2回公演で、日曜日には昼のマチネーが15時30分から追加されました。内容はわかりませんが、1部が「驚きのつむじ風」「水による紙吹雪」「「サタンの娘」「逆さま劇場」「バグダットの盗賊」「映画監督」「チャイニーズ・ファンタジー」など20演目、2部が「合成ウーマン」「怯えるゴースト」「地獄のバレー」などのイリュージョンを中心とした6演目で、トリは「アトミック・ウーマン」でした。「アトミック・ウーマン」とは最初に宙に浮いているトランクに入れられた美女が消え、やはり舞台上で床から完全に離れている別のトランクから現れるという驚嘆すべきマジックでした。舞台装置はスペインのバルセロナやメキシコ、ニューヨークなどの有名な会社が製作、60着もあったという中国風の衣装は香港やハリウッドの特注品、照明はニューヨークの会社が担当しました。
1950年アルゼンチン・ラザリオでの劇場プログラム(表・裏) |
下の写真はスペインの首都マドリッドにあるプリンシパル劇場で、1956年6月16日と17日の2日間のみ、夜8時と11時の1日2回公演が行われたときのプログラムです。「フー・マンチューの魔法」と題されたこのショーは、女性マジシャンのケルミスをもう一人のスターにしています。30の演目が一つのストーリーで結ばれ、マジックのオリジナリティーと的確な音楽が、観客から大きな賞賛を浴びました。1部は6年前のラザリオ公演と同じ出し物が多いのですが、2部に「砂漠の砂」、3部に「消えかかる光」「火のドラゴン」などの視覚的に美しい新たな演目を加え、トリはやはり評判の高い「アトミック・ウーマン」でした。
1956年スペイン・マドリッドでの劇場プログラム(表・裏) |
彼は常にオリジナリティー溢れる演目の改良に力とお金を注ぎ、そのため一座の財政事情は、その人気とは裏腹にいつも苦しいものだったといわれています。
1974年、彼はブエノスアイレスの病院で息を引き取ります。息子が一人いましたがプロ・マジシャンになることはなく、6代続いた栄光の奇術師一族は彼の代で終わったのです。