坂本圭史

柴田直光氏の著作と若手マジシャンの育成

 今から80年以上も前、東京アマチュアマジシャンズクラブ(TAMC) 創立当時のメンバーに柴田直光さんと言うかたがおられた。 柴田さんの妹の仲人を、私の両親がつとめるなど、我が家とは大変親しいお付き合いをさせていただいて来た。 戦時中から、昭和25年頃まで、岩手に疎開していた我が家に遊びに来られ、 当時我が家に保管してあった阿部徳蔵氏が集めた奇術関係の洋書を見て、 「近くマジックの本を書くので、貸してほしい・・・」と言って何冊か持って行った。 何を持って行ったか分からないが、その中に「ポピュラー マジック」 と言う本があった事だけは何故か、覚えている。 それらの資料を基にしてか、やがて発行したのが「奇術種あかし」(昭和26年12月初版発行)である。 奇術の解説書など殆んどなかった時代である。

柴田直光氏の肖像写真
(鶴岡鶴吉氏編集“直光さん”より引用)

 亡父坂本種芳(TAMC第5代会長)は同書の序文に次の通り書いている。

巷間、手品のタネ本は必ずしも皆無ではない。
しかしそれは一通り演技の道程を記してあるだけ・・・。演技の道程を指導した書はない・・・


 同書の内容は極めて充実したもので、マジックを志す者にとっては有効な指導書であったが、 カードに関する表現では
  “カット”を「切り返し」
  “グライド”を「裏引き」
  “ダブル リフト”を「重ね上げ」など、無理やり日本語に訳したり、
  “ボトムカード”と言う言葉のあとには「裏札」とカッコ書きしている。
またバイシクルのカードを指して「米国製の自転車印などは安心して使用できる」と記載があり、その表現は隔世の感がある。

 私はむさぼる様に繰り返し読んだ。正にマジックを始めたばかりの私にとってはバイブルであった。同誌を今でも大切に保存しているが、背表紙は破れボロボロになり、綴じ込みの糸が出て来るほどの状態にある。よくもまあ、こんなになるまで読んだもんだと、今更ながら驚いている。


読みほぐしてボロボロになった 柴田直光著「奇術種明かし」 初版本(昭和26年発行)

 処で、東京アマチュアマジシャンズクラブでは、戦後間もない頃、青年部と言う部門を設立した。その事については「同クラブ創立80周年記念誌」(平成25年刊行)の「TAMC ”A to Z“」と言うタイトルの中にも記載した。それは、世の中にマジックがそれほど定着していない昭和20年代の後半、当クラブでは社会的地位の高い長老的ベテラン会員が多い中、若手の入門的なセクションを作り、将来のマジシャンの育成を計るため「青年部」と言う部門を創った。そして柴田氏は初代青年部長に就任した・・・と言う経緯である。 当時の言葉をそのまま引用すると「若い世代を育てる事で奇術の老化、衰弱を救おう」と言う事であった。
 私は青年部設立と同時にTAMCに入会した。昭和27年12月、大学2年、20歳、今から60年以上も前の事である。 青年部は、昭和37年、TAMC本体に吸収一体化されたが、青年部在籍者のその後の活躍ぶりを見ると、TAMC会長に就任したもの (持永恒美、多湖輝、坂本圭史)、 副会長(小永井暹、高橋忠利)、 幹事長(坂本芳彦)、 現役でショップ経営者やマジッククラブの会長職を務めておられる方もいる。 昭和40年代以降の我が国マジック界で活躍する事になったかたがたを多く輩出している。

TAMC青年部 会報(ホーカス ポーカス)
TAMC80周年記念誌の外観

 柴田氏は昭和38年12月急逝したが、その後、30年以上を経て、平成7年、柴田さんのご息女光子さんとお話する機会があった。 光子さんは、大切に持っておられた柴田直光氏愛用のカード(仕掛けカードに加工したバイシクル14セット)を、「坂本さんはお父上のあとをお継ぎになっている姿を拝見し、感じ入って・・・」と仰って私に下さった。 戦後、モノのない時代、お菓子の空き箱を利用して柴田氏が保管していた状況のままであった。私にとっては まさに宝物である。


柴田氏と坂本種芳(父)
坂本圭史の幼少時(昭和13年頃)

柴田氏が使用していたカード
仕掛けカードに加工したバイシクル14個
お菓子の空き箱に入ったままで …

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