松山光伸

開国期に下賤の芸から表舞台の芸に
格上げになった手品師達
第4回

蕃書調所で見た手品

 既に見たように、ハリスがはじめて観賞した芸は、安政5年3月9日の「蝶の手品」をメインにしたものであった。この時の演者が柳川豊後大掾(初代柳川一蝶斎)だったことは、ヒュースケンの日記にある「頭をツルツルに剃った手品師」という表現で明らかになる。というのも、一蝶斎は二代目を倅(養子)の文蝶に継いだ弘化4年(1847年)にその名を柳川豊後大掾とし、それを機に剃髪したからである。幕末期になると外交使節に対する接待の場に「禿頭の蝶使い」が度々呼び出されることになるがそれはこの豊後大掾のことである。

 ハリスはこの芸を滞在先になっていた蕃書調所で観ることになったが、そのタイミングは条約案がまとまって、幕府にとってもハリスにとっても骨の折れる作業が一段落した時期である。ただ、ハリスの日記を見ると、1月末から2月初めの下田での氏の病状は極めて重篤で、一時は危篤に陥って遺言を残すようにヒュースケンに促されており(幕府も見舞いに医師を派遣していた)いかにこの交渉が身体を蝕むほどの重責だったかが伺える。従って、そのハリスの病後を癒すなぐさみとして接待役が急遽日本の芸を見せることを思い立った可能性もあろう。

 ただ、この時期ハリスは極度のストレスを抱えていた。勅許の時期が遅れるだけでなく合意にこぎ着けた通商条約自体が認められなくなる事態も考えられ、その時は戦端を開くことも覚悟していたからである。ハリスの日記を見ると、幕府がことあるごとに調印を延ばそうとしているものと常に疑っており、複雑な思いで余興観賞の誘いを受け芸人の演技を眺めたのであろう。

明らかになった蕃書調所での余興観賞の経緯

 前述したように、ハリスが見た日本のユニークな芸はPhiladelphia Ledgers紙に現れると、次々と各紙がこれを全文転載することになって世界に広く伝わることになった(残念ながらPhiladelphia Ledgers紙の原文は未見)。ところが、それに先立つ半月ほど前、それより詳しい記事がThe New York Times紙(米:11/20)で報じられているのが見つかった。これもPhiladelphia Ledgers紙からの引用とされていたが、実はこちらの方は手品や曲独楽の演技だけの引用ではなく、元の記事の全文が掲載されていたことから、その時の様子の全貌が見えることになった。

 すなわち、このNew York Times紙を見ると、前述した「四つの技」の説明だけでなく、その前後に次のような文章が添えられていたのである。

ハリス氏の言によれば、エンペラー(将軍のこと)は彼にふさわしい広大な舘(注:蕃書調所のこと)をあてがったものの、その退屈と思われる日々を心地よいものにしてもらおうと信濃守(注:井上信濃守のこと)に世話役を託していた。その信濃守は何人かのジャグラー(原文はsome of his jugglers)をハリスの面前で演じてもらおうと呼び寄せ、氏を楽しませようと計らってくれたのである。その内の一人は「日本のアンダーソン」とも言える人物で、その技はどれもが大変すばらしくここにうまく表現できるかさえ不安がある(注5)。ハリス氏が話してくれた通りのことをここに記すことで理解してもらえるものと願うのみである。


 この文面から、柳川豊後大掾が彼の十八番である蝶の手品を見せた3月9日の当日、蕃書調所には他の芸人も一緒に呼び出されていたことが明らかになった。一部分を転載した他紙が、引用した部分の表題を ”A Japanese Juggler” としたことが誤解を招く原因になっていたがこれでようやく当時の状況が見えてきた。そして、このあと「四つの技」の紹介文面が続くのであるが、そのうしろに更に以下の興味深い説明が続けられていた。

江戸には当時芝居小屋は四つしかなく、いずれも隣り合わせに一カ所に立地していた。従って、江戸の街はずれに住んでいる住人が見物に行こうとするとかなりの距離を歩かなければならないことになるが、「守」と呼ばれる人については駕籠か馬を使うことが許されているとのこと。ただ、仮に馬を使うとなれば左右に馬手を雇って馬を引かせなければならず一人で歩いていくことは禁じられている。ハリスが芝居小屋のそばを通った際に興行をみてみたいと言って付き添いを驚かせたことがあったが、一般の町人ではない人物が実際にこのような場所に出向くことはないとのこと。もし高貴な人でこの種のものが見たければ、屋敷に彼らを来させるのが一般的であるとのこと。


 この全文はInteresting Letter from Japanとの副題が付いていることからわかるように、同紙に寄せられた手紙を掲載したものであるが、その内容を見ると、修好通商条約交渉の最初からの経緯や日本の諸事情などが記されている一方、ハリスやヒュースケンとのやりとりも書かれているため彼らに直接会った第三者の手で記されたものであることが読み取れた。そして最後にA. W. H.の署名があったことから、この人物は安政5年6月15日に下田に到着しその後まもなく本国に帰還した軍艦ポータハンの士官アレックス・ハーバーシャム(Alexander Wylly Habersham)だったことが特定できた。

柳川豊後大掾がハリスに「蝶の手品」を見せた「蕃書調所」跡
(1856年に現在の九段南の地に建立) 亜欧堂田善のスケッチ画

注5:引き合いに出されたアンダーソンはプロフェッサー・アンダーソン(1814-1874)のことである。19世紀に活躍した英国の有名なマジシャンで、一座と共に、英国のみならず、ヨーロッパ各国や米国を巡業した。「北方の魔術師」とも自称。後年娘のリジー(Lizzie)がアサキチの演技を見てバタフライ・トリックを演じることになる。

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