興味をそそられるのは、徳川幕府が曲独楽や手品を操る芸人を動員してまでハリスに気をつかっていたことである。手品師が幕閣の要請を受け、表舞台に引っ張り出されることになった経緯は極めて興味深いものがあるが、そこに至る流れは交渉の過程を追っていくとよく見えてくる。
実は、幕府側は、開国要求は伊豆下田の水際でかわすことができると当初踏んでいた。ところがハリスは通商条約を求める大統領の親書を江戸で直接将軍に手渡すことを求め、江戸湾内に艦船を進めることを主張して譲らなかった。当時の将軍家定は生来病弱だったこともあって幕府側としては少なくとも下田にハリスを引き留めるべく、急遽玉泉寺をハリスのための領事館としてしつらえよくやく交渉が始まった。そして下田奉行との間で下田協約がまずは締結となる。
ただ、下田と江戸の頻繁な連携にもかかわらず、将軍への親書の直接伝達については進展が見られなかったため、ハリスは艦隊を江戸湾奥に進めるなど強硬策に及び、ようやく江戸城に上ることを認めさせるのである。陸路江戸に入って蕃書調所を仮の滞在場所とし、将軍家定に謁見の上、親書を渡すことができたのはようやく下田入港から一年以上たった安政4年10月21日のことであった。
通商条約の交渉が本格化するのは12月になってからであるが、もとより幕府内でも異論が百出しており、またハリスを暗殺せんとする計画も発覚するような状況も起きる中、ハリスは条約の文言について厳しい要求を突き付け、最終的に条約案がまとまってあとは調印という段階にこぎ着けたのは安政5年1月5日であった。ところが外国との条約締結には朝廷の勅許を得ることが必須で、これに更なる時間がとられるばかりか、場合によっては条約案が却下される恐れも出てきた。ここでハリスは、当時老中の首座にあってこの交渉の責任者になっていた堀田備中守に対し、二か月以内に調印するとの一札を入れさせるのである。堀田は急ぎ最終稿を仕上げ1月21日京都に向かった。一方、その直後に体調を崩したハリスはその間一旦江戸を離れて療養することとし同日海路下田に戻ることになる。ところが京都では上洛した堀田備中守の懇請にもかかわらず「調印は、改めて徳川三家以下諸大名の意見を徴して後にすべき」と撥ね付けることとなった(安政5年2月23日にまずは口頭で告げられた)。以下、日を追って状況を見ていこう(日付は資料によって若干違うがもっとも信頼度が高いと思われるものによる)。
安政5年2月23日 | 堀田、京都にて朝廷から「再度徳川三家以下諸大名との協議」を求められる(口頭)。 |
安政5年3月5日 | 調印期限と要求していたこの日、ハリスは下田から海路再び江戸に戻って蕃書調所(注4)に入る。 |
安政5年3月6日 | 3月1日付けの堀田の書状が江戸に届きハリスに渡される。そこには60日以内の調印は不可能になったとあった。 |
安政5年3月9日 | ハリス、柳川豊後大掾の「蝶の手品」を見る。 |
安政5年3月20日 | 朝廷、勅許の件は、徳川三家以下諸大名の意見を更に徴せる上にて、再び申請すべきことを、正式に堀田備中守に宣示。 |
安政5年3月23日 | ハリス、源蔵の「太神楽」を見る。 |
安政5年4月5日 | ハリス、回向院で相撲見物。 |
安政5年4月6日 | 堀田に随伴して上洛した岩瀬肥後守が京都より江戸に帰着しハリスに状況を説明。堀田に対する暗殺計画も耳にする。 |
安政5年4月14日 | ハリス、芝の神明社境内で松井源水の「曲独楽」を見る。 |
安政5年4月20日 | 堀田備中守、勅許奏請に失敗して、江戸に帰着。 |
安政5年4月23日 | 幕府、彦根藩主井伊直弼を大老に任命。 |
安政5年4月25日 | 堀田備中守、ハリスと会見、条約調印の延期を懇請。 |
安政5年4月25日 | ハリス、調印時期の確約に関し、将軍と閣老の文書を求める。 |
安政5年5月7日 | ハリス、再び下田に向かう。 |
安政5年6月13日 | ミシシッピー号が下田に入港。ハリスにアロー号事件をキッカケとした英仏と清の戦況を伝える。 |
安政5年6月17日 | ハリスは、清への侵略に続いて英仏が日本に侵略する可能性を指摘し、日米が事前に友好条約を結ぶ必要性を指摘。 |
安政5年6月19日 | ポーハタン艦上において日米修好通商条約調印となる。 |
安政5年6月23日 | 堀田備中守、将軍継嗣問題と条約勅許の奏請不首尾のため老中を罷免さる。 |
安政5年7月5日 | 幕府、越前の松平慶永、尾張の徳川慶恕、水戸の徳川斉昭、一橋の徳川慶喜を、幕府の外交政策に反対の廉をもって罰する。(安政の大獄) |
安政5年7月6日 | 将軍家定没。 |
曲独楽師や蝶の手品師に声がかかったのは正にこのような時期であるが、幕府やハリスが一刻も早く勅許が下ることを願っていた様子が伝わってくる。
注4:病後であったハリスは日本側委員の制止にもかかわらずこの日までに江戸に戻ることにこだわった。蕃書調所は幕臣の子弟を対象に洋学教育を行うとともに翻訳事業を行うために設立されたところである。