高瀬清といわれてもピンとこない方がほとんどではないかと思います。
彼は松旭斎天一一座が明治34年に海を渡って欧米各地で評判を得た時の座員で「天清」と呼ばれていた人物で、「高瀬清」は天清の本名です。
あえて「天清」を表題にしなかったのは、彼はその生涯のほとんどを本名であるKiyoshi Takaseで通していたからです。
彼が独立するまでの経緯を簡単に振り返っておきます。
天一は天勝とともに明治38年に帰国したため、海外での興行は4年足らずとなりましたが、天二(天一の養子で後に二代目天一となる)と天清はともに現地に残って、アメリカで一年余活動し、その後ヨーロッパに渡って更に見聞を広めながら興行の機会を得ていきます。
そして天二は明治42年に父天一の一座を助けるために帰国しますが、高瀬の方はヨーロッパで成功すべく現地に留まって世界に羽ばたく決意を固めたのです。
高瀬清はガラス吹き職人だった高瀬平吉の長男として東京深川で明治21年(1888年)に生まれました。
彼が天一一座の一員として海を渡った時はまだ12歳に過ぎない少年でした。
当時の尋常小学校の修業年限は4年で義務教育とされていました。となると卒業直後に一座に加入したにしても天一の元での海外渡航前の修行期間は2、3年そこそこに過ぎなかったと考えられます。
一座に加入した経緯は不明ですが、天一が東京の文楽座でデビューして大成功し、新しく住居兼稽古場として蔵のついた大きな屋敷を建てた薬研掘町と、彼が生まれ育った深川西町とは隅田川を挟んだ真向いにあり、すでに有名人になっていた天一のことは小さい頃から耳にしていた可能性があります。
ガラス吹き職人だった父親が天一の薬研掘の家から仕事を受けていたり、天一のファンだったりしているなどの繋がりがあったのかも知れません。
いずれにせよ清が渡航メンバーに選ばれたのは、子供ながらも芸のセンスに見どころがあったことに加え、天一の目から見て信を置ける人物だったからだと考えられます。
というのも天一は渡航メンバーのほとんどを身内で固めていて、天二以外には、お気に入りの天勝と彼女の姉と妹にあたる天若(若子)と天寿(寿子)という三人娘を加えることを決めていました。
彼女たちは出国当時それぞれ20歳、15歳、11歳という年頃の娘だったためメンバー構成にはかなり気をつかったものと思われます。
さて、それまで頼りにしていた天二がイギリスを去った1909年(明治42年)以降、どのように高瀬が身を処したのかが気になります。
もちろんそれまでの経験に加え、天二の助手も務めてきていたため水芸やサムタイの芸は身につけており、それが売り物になることは実感していたはずですが、天二夫婦がいなくなると一人で水芸を演じるわけにもいきません。
しばらくはツテを頼って将来像を描きながら、副業で生計をたてつつ、道具や衣装やアシスタントなど整えながらスタートアップに備えていたのです。
さて、タカセの名が初めて記録に見えるのはイギリスで10年に一度行われる国勢調査の記録でした(以後の表記は高瀬ではなくタカセに統一します)。1911年4月に行われた国勢調査の日に彼はロンドンから10kmほど離れたテームズ川沿いのモートレイク(Mortlake)の町の中心部、ハイ・ストリートに位置するモートレイク・ホテル(Mortlake Hotel)にいました。
このホテルは客室が13室の大きさですが、彼の名が記された調査票のページには7人の名前が記載され、ホテルのマネージャーの家族(主人である本人と妻と子供)とホテルの仕事を手伝っている本人の弟、それにKiyoshi Takaseと二人の雇用されているメイド(Servant)がリストアップされていたのです。
宿泊客はこのページには書かれておらず調査票には記載したマネージャーの署名があります。
Kiyoshi Takaseの欄には、21歳、独身、ビジター、アーティスト、東京生まれ、日本人、と記されていましたが、このビジターの意味が判然としません。
家族でここにいた人の場合はHead(戸主)、Wife(妻)、Son(息子)、Daughter(娘)などと記入し、そうでない場合はVisitor(訪問者)、Boarder(下宿人)、Servant(召使)と記載するルールになっているため少なくともServantとして下働きをしていたわけではないことが読み取れます。
とはいえホテル側の関係者をまとめて記載しているページにTakaseの名が記載されているところからTakaseはこのホテルで客にマジックを演じながら数か月手伝いをしていたのではないかと想像できます。
国勢調査の日には22歳だったにもかかわらず21歳と記されていたのは彼との契約時点の年齢が21歳だったためそのようにマネージャーが記したのではないかと推測します。
この時期の彼の動向についてはもう一つの手掛かりがありました。それは週刊新聞 Leicester Chronicleが、高瀬が“Red Pearls” という映画に出演して活躍していることを後年報じたもので1929年の11月2日号に見つかりました。題して「イギリスのトーキー映画の日本人」(Japanese in English Talkie)。その記事で注目されたのは以下の文章です。
The first appearance of a Japanese actor in an English talking film is that of Kyoshi Takase, in the Archibald Nettlefold production “Red Pearls.” Although Takase speaks English with a slight accent, it is said that his voice records perfectly, and that his pronunciation of several words is very attractive. Takase himself is quite a romantic figure. He left Japan to seek a fortune for himself when only twelve years of age. He was then a member of the Ten Ichi troupe of jugglers. After touring England and America, he found himself stranded, and worked as a restaurant cashier until he managed to join another troupe of jugglers.
注目すべき点は2つあります。一つは1929年の時点でTakaseの英語力は、アクセントが平坦であることを除き、日常生活を送ったり、映画でセリフ付の役柄を演じたりするにはほとんど支障がなく、単語のいくつかはアトラクティブ(人を引き付ける)と評されていたことです。
後述するように高瀬は後年イギリス人女性と結婚していることもあって日常英語はあまり問題なく使えたはずですが、記者は映画の中の日本人の英語が意外なほど綺麗なことに新鮮な驚きを感じ、そのことを敢えて記したものと推察できます。
もう一つは、彼が天一一座から独立したあと、生活が成り立たなくなり「一時期レストランで会計係の仕事をしていた」と説明していたことです(ウェイターも経験したことがあるとする記事もありました)。
最後にある「他の一座に加わるまで働いた(until he managed to join another troupe of jugglers)」というのが天二一座のことなのか、それとも天二が帰国したあと、どこかのグループに加わったのかは定かでありません。ただ、一人立するまでにかなりの苦労を重ねた様子がこの記事から伝わってきます。
彼のマジックが報じられたのは、国勢調査の日から1年半を経た1912年の暮れ、場所はなんとマジックショーの殿堂と言われたあのセント・ジョージ・ホール(St. George’s Hall)の舞台でした。ここはJ. N. マスケリン(John Nevil Maskelyne)の一族やデビッド・デヴァント(Devid Devant)が築き上げたマジックの常設劇場で、マジシャンであれば誰もが出演をあこがれる舞台でしたが、そのクリスマスシーズンのプログラムに起用されたのです。
J. N. マスケリンは英国のマジックの黄金期を作った人物で、その名声は天一一座の面々にも知られていました。天一と別れたあとの天二も幾度となく彼らの舞台を見つめていたことは明らかです。そのことは天二が明治42年(1909年)に帰国するに際し、その動向を伝えた読売新聞の12月18日の記事から読みとれます。曰く、
奇術師天二
(前略)・・・それより世界一の奇術家マスクリン氏の門に入り二年間修業し今夏五月氏より其奥儀を許され英國倫敦マスクリン座にて開演好評を博したる・・・(後略)
ここでいうマスケリン座というのは上述したセント・ジョージ・ホールのことです。現地のマジック史研究家の力も借りて調べてみたところ、天二のこの言葉には大きな疑念があることがわかりました。というのも天二が英国に渡った直後の1907年1月から帰国便に乗船する直前の1909年2月までイギリスの各地を休みなく巡って興行している事実がある一方、セント・ジョージ・ホールに出演した形跡は見つからなかったのです。従ってマスケリンの下で学ぶ機会があったとは思えず、加えてこの国では徒弟のような立場の芸人は制度的に劇場出演が許されていないことも英国のマジック史関係の友人からの指摘で明らかになりました。
読売新聞にあった記事は、マスケリンのもとで学びたかったという彼の気持ちが、思わず口をついて出てきたものを記者が誤解して書いてしまったのか、それとも意図的に大言壮語したのかのどちらかでしょう。
ただ、どちらにせよマスケリンのセント・ジョージ・ホールの舞台に立ちたかった天二の願望を、弟弟子のタカセがようやく成し遂げたのです。
さぞや感慨深いものがあったと思われますが、その達成感を分かち合える友人はいたのでしょうか。
マジシャンとしてセント・ジョージ・ホールの舞台に初めて立ったのはタカセが初めてですが、実はそれ以前にこの舞台を飾っていた人物がいました。
その嚆矢は1901年にデヴァントの目にとまり、1904年末からはこの舞台の常連になっていた日本人太神楽曲芸師M. ジンタロー(M. Gintaro)です。
マスケリンのマジックショーが消防法に適合できなくなったエジプシャン・ホールからセント・ジョージ・ホールに移行する節目に起用され、ショーの冒頭を華やかに飾るオープニングの役割を任されていたのです。
ジンタローはJ. N. マスケリンに惚れ込まれ、香港の租借になぞらえて「99年の租借をしてでも借り受けたい人材」とまで言われ、その後も準レギュラーと言えるポジションを得て1930年代までこの舞台を踏むようになります。
そんなジンタローはタカセと同じく12歳で海外に渡ってきた背景がありましたから、劇場に何度も通っていたタカセとは顔を合わせた時から意気投合したことでしょう。
もちろんジンタローの紹介を得たとしても、演技力や実績がなければマスケリンやデヴァントといえども簡単に採用することにはなりません。
しかしタカセは天一一座や天二一座の一員としてすでに英国各地での豊富な演技経験がありました。
結局のところジンタローの口添えなども功を奏してその舞台を飾ることができたのです。
ちなみにこのクリスマスプログラムは1月末まで続く公演でした。出し物の中に見える“Disappearing Donkey”という演目はチャールズ・モリット(Charles Morritt)が考案したばかりの「ロバが消える現象」で、今日の「象の消失」の原点ともいえる有名なものですが(両者の原理は全く異なります)、The Globe紙などいくつかの新聞の芸能案内ではそのモリットとタカセの名だけがあり、それほどタカセのマジックが呼び物になっていたことが分かります。