松山光伸

常設マジック館の設置

マジック・キャスル(1970年代当時)
マジック・キャスル(1970年代当時)

 ロスアンゼルスのマジック・キャスルに行った日本人マジシャンは、あのような常設クラブが日本にもあれば、と一度は思うようだ。事実、10年前には清水市にマジック専門館が開設になった。清水港にオープンしたエスパルスドリームプラザは、テーマパーク型レストラン、映画館・ショッピング街・アミューズメント・大形生鮮マーケット・ミュージアムやフットサル場などが集合した複合アミューズメント施設で、その中にマジックショー専門館(4F)ができたが結局うまく行かずになくなったことは知っている人も多いだろう。

エスパルスドリームプラザ(1990年代当時)
エスパルスドリームプラザ(1990年代当時)

 古くは、初代引田天功も晩年になって大魔術殿を富士山麓に作ったが、所詮成功するとは誰も思っていなかった。

 一方、最近、六本木にマジックシアターが出来た。こちらはどのような形になっていくのだろうか。うまくいくことを願うが、マジックの常設館というのは非常に難しい。19世紀から20世紀にかけて英国のマスケリンとデバントによるエジプシャン・ホールやセント・ジョージ・ホールが50年以上続けられたのはむしろ奇跡である。また、ラスベガスでは息長く続いているマジックショーもいくつかあるが、こちらの方はあまりに環境が違うので参考にはならないが、それ以外の身近な成功事例の要因を考えてみるのは有益なはずだ。

1.マジック・キャスルの成功

 誰もが思いに描くマジック・キャスルの成功体験をみてみよう。それには50年以上も前にさかのぼる必要がある。

GENII誌 April 2008 表紙
GENII誌 April 2008 表紙

 その原点はラーセンというマジシャンが発刊したGENII(ジニー)という奇術雑誌にある。1936年にウィリアム・ラーセンが発刊したこの雑誌は、氏が1952年に亡くなるとその夫人がオーナーとなって息子のウィリアム・ラーセン・ジュニアが編集を引継いだ。当時の部数はまだ2千部そこそこだったが、アカデミー・オブ・マジカル・アーツ(Academy of Magical Arts and Sciences)という会員制クラブを同年に立ち上げる。その後GENII誌のオーナーシップをラーセン・ジュニアが引継ぎ、ハリウッドの一角に自前のクラブ・ハウスを持ったのは1963年のことであるが、このクラブがマジック・キャスルなのである。

ダイ・バーノン
ダイ・バーノン

 ここでラーセン・ジュニアは素晴らしいアイデアを思いつく。クラブを魅力あるものにするために奇術家なら誰もがプロフェッサーとして敬愛するダイ・バーノン氏を三顧の礼をもってニューヨークから迎え、移り住んでもらったのである。そして彼の考え方がGENII誌の1968年9月号からバーノン・タッチとして連載されることになった。彼の友人や彼を慕うマジシャンがハウスマジシャンとして集まってくるのは自然の成り行きである。チャーリー・ミラー、ディック・ジンマーマンなどが常連となり、ラリー・ジェニングス、マイク・スキナー、ブルース・サーボンといったクロースアップの名手はここで育ったといっても過言ではないだろう。実際、バーノンはマジック・キャスルに来るマジシャンとは誰とも分けへだてなく会うことを常とし、その結果、ニューヨーク、シカゴに並ぶマジックのメッカがこのハリウッドにできたのである。

 マジシャンの中で評判が高まったクラブで演じられるマジックの質は当然のことながら高く、一般会員やゲストカードで一緒にくる同伴者の評判にもなり会員数は順調にのびていく。好循環のサイクルとなり、現在マジシャンの会員は約3,000人、アソシエーツと呼ばれる一般会員を含めると約5,500人にまでなった(この数はここ20年くらいあまり変わっていない)。

 マジック・キャスルの成功は一朝一夕で出来たものではなかった。その条件をあらためて整理すると次のようにいえるだろう。

  1. 多くの人が気軽に使える立地のよさ(富士山麓や地方都市では難しい)。
  2. リピート訪問が期待できる固定客としての会員組織(需要の安定確保)。
  3. そこに質の高いマジシャンが集まる仕掛け(見せる人材の確保)。
  4. 低コストでのサービス提供(上記の諸要因があって初めて実現可能)。

 立地がいいから人があつまる、マジシャンにとっても魅力のあるクラブだからこそ、一般会員も増える、人が集まるから更に充実したサービスを提供できるという好循環が実現したのである。

 実は、GENIIのような刊行誌はマジックの館に必須というわけではない。確かに、その過程では重要であったが、現時点ではもはや必須のメディアではなく、事実、10年前にGENIIの経営はリチャード・カウフマンの手に移り、キャスルとは基本的に無関係になっている。

2.シーザース・マジカル・エンパイアの試み

シーザース・パレスのフォト・カバーより
シーザース・パレスのフォト・カバーより

 ラスベガスの高級ホテルであるシーザース・パレスのシーザース・マジカル・エンパイアをご存知だろうか。4千万ドルの巨費を投じてマジック専門の常設パレスを1996年6月に開場したのはマジック・キャスルの二匹目のドジョウを狙った発想である。マジック・キャスルの支配人だったミルト・ラーセン(ウィリアムの弟)をアドバイザーに迎え万全の体制で運営していたにもかかわらず2002年11月末をもって何故か閉鎖してしまったのである。収益は上がっていたが、より収益力の高い企画に切り替えるために取り壊すことになったとされている。食事つきが前提になっている体験ショーであるとか、会員制でない事など、マジック・キャスルと異なるコンセプトだったが、それでも「成功のための4条件」は見事にクリアしていたことがわかる(2番目にある会員組織はなかったが、年間5千万人が集まるラスベガスの立地で集客力は補えたのである。

3.クラブ・ハウスのあるもう一つのマジック組織

ザ・マジック・サークル本部
ザ・マジック・サークル本部

 一般客をターゲットにした常設館としてのシーザース・マジカル・エンパイア、一般客とマジシャンを会員にした常設クラブのマジック・キャスル、に対し、100%マジシャンだけの会がクラブ・ハウスでの集まりをメインの活動として成功してきている事例がある。100年超の歴史を持つ英国のザ・マジック・サークルである。実はこれがいま注目されている。それは、さほど巨大な会員組織ではないにもかかわらず、会員のニーズに沿った活動を自ら実践することで質の高い活動を維持し大いに発展しているからである。詳細は省くが、実際、このクラブは上記の4つの条件を備えるべくマジシャンにとって内容の濃いクラブナイトを週一回開くなど、会員にとって魅力あるクラブ運営を行っているところに最大の特徴がある。(このクラブ・ハウスがザ・マジック・サークルの本部になっている)。

 そしてクラブ員向けの行事(毎週行われるクラブナイツ)とは別枠で、一般の人に対する啓蒙活動としてこの本部館では月1回のマジックショーや年末のクリスマスショーを開催するなどしておりその収益を本部ビル(クラブ)の運営費にあてている。内容面(クラブ員向けと一般の人向けを明確に区分)と経営面の双方を見事に両立させる取り組みは極めて組織的に行われていて注目されているのである。

日本に馴染みやすいマジックの館とは

 3つの事例を見てきたが、いずれも、一朝一夕ではマネのできないノウハウを積み重ねながら、その地にふさわしい形のマジック館なりマジッククラブが成り立ってきたことがわかる。日本でチャレンジしてきたものは、この中では、2番目の一般客をターゲットにしたマジカル・エンパイア型のものということになるが、いずれも広い客層の集客力という点でもともと成功はおぼつかなかったといっていいだろう(都心に立地したとしてもクリスマスシーズンは別としてそれ以外の時期は駐車場がないと接待目的以外には利用客は限られる)。

 会員制のクラブを基盤としたマジック館も現状のような小規模クラブが多い日本の現状では可能性は全く見えてこない。どうやらこの分野は限りなく見通しは暗いようだ。

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