一方、ブヒクロサンの実像を追っていった結果、彼の消息が載ったザ・タイムズ紙の記事がいくつか見つかった。そして、その1つの1892年6月1日の紙面は氏が破産に陥ったことを伝えていた。これは「江戸の農場屋敷」を手離してから間もない時期である。予期していた動静ではあったが、世話になっていた甚太郎にしてみれば、いつまでも居候をしてはいられない心境になったはずである。幸いなことに、その前年のロイヤル・アクエリアムへの出演等で甚太郎は既に興行界では有名になっており、またデビット・デバント等とも知己になっていたことから、その後の人生をうまく切り開くことが出来たものと考えられる。
さて、そのブヒクロサンには謎が残されていた。第8回目に掲げた図1の中の最上段に示したように、職業が年代ごとに異なっているのである。ここに記した職業は子供の出生届や結婚届の中にあった「父親の職業」の欄に書かれていたものをそのまま転記したものであるが、1960年代後半から70年代にかけては「日本語通訳」であったものが、70年代半ばには、「日本人芸人一座の旅行手配業」となり、その後、日本人村の実現に向け活動していた80年代半ばともなると「コマーシャル・トラベラー」となっている。この記述からノウハウを積み上げるに連れて徐々に仕事の枠組みを広げていたことが窺い知れる。また、日本人村が廃村に追い込まれた後は「日本貿易商」として細々と日本との間で商品の輸出入に携わっていたことも読み取れる。そして、この中で特に注目されるのは60年代後半から70年代半ばにかけての「日本人芸人一座の旅行手配業」という表現である。多くの渡航日本人芸人と開国直後から深く関わっていたことがこの記述から判るのである。
そんな或る日、大英図書館のキューレーター(学芸員)でザ・マジック・サークルの100周年に合わせ、古いマジック関連資料を整理していた人物と或るキッカケで知り合いになり、貴重な資料を入手した。それはマジシャンとしても有名だったH.E.エバニオン氏(Henry Evans Evanion)のコレクションに含まれていたもので、「日本人村」で催されていた余興演芸のプログラム「タンナケル・ジャパニーズ・エンターテインメント」だった。言うまでもなくこのタンナケルとは、タンナケル B.N.ブヒクロサンのことである。「日本人村では日本工芸等の実演余興等は行われていたが、芸人は派遣されていなかった」といままで単純に考えていたが(少なくとも日本政府は「日本人村」に行こうとする芸人の出国を止めていた)、この資料の発見によって実際には様々な芸が日本人村で披露されていたことが明らかになった。
これの意味するところは最早明らかだろう。ブヒクロサンは、以前から接点のあった日本人芸人(その大半は日本に戻らなかった渡航芸人であろうか)を独自に現地で雇い、日本人村への入場者数を何とか最後まで維持しようとしたのである。そして更に驚いたことに、この余興演芸の中にジンタローの名が見つかった(写真29)。ジンタローの渡英時期はいままで1887年の「或る日」としか判っておらず、その一方で、「日本人村」の閉場は1887年6月、そしてオペレッタ「ミカド」のサヴォイ劇場での終演が1887年2月であったため、「ミカド」や「日本人村」での演技の可能性は少ないと考えていたが、少なくとも日本人村では演技を行っていたことがわかった。となると、ジンタローの渡英時期は1887年でもかなり早い段階ということになり、もし、3月3日より前に渡航していたのであれば、11才での渡英だったことになる。
そして、更に目を疑うものが見つかった。それは全く別のテーマでオーストラリアの史実を探し回っていたところ古い記事の中に日本人一座の公演とブヒクロサンの名が偶然見つかったのである。実のところ、いままでの日豪芸能史研究では、現地のザ・アーガス紙(The Argus)の1868年(慶応4年)1月17日号に掲載されたグレート・ドラゴン一座(Great Dragon Troupe)のメルボルン公演が日本人の豪州初上陸とされていた(注7)。ところが、それに先立つ1867年(慶応3年)に、別の一座がオーストラリアの地を踏んでいたのである。実は、この発見には伏線があった。15年程前訪豪した折に、海外から来豪した芸人の記録を綴ったMagical Nights At The Theatreという本に出会って手に入れたことがあったが、その中にこの一座の存在が数行触れられていたのである。ところが、どこにもそのことの根拠を示すものが見つからず、いつの日か一次資料を確認したいと考えていたのである。それが今回偶然に見つかったのである。それはキャンベラの国立図書館の紀要の中に、かつてメルボルンで発行されていたロントゥラクトゥ(L’Entr’acte)というタブロイド版の歴史的芸能紙の紹介があるのを見つけ、どうやらその中のどこかの号にこの一座のことが記されていることを確信したのがキッカケだった。見つかった現物はThe Entr’acte紙の、11月18日号と12月2日号で、驚いたことに、そこにブヒクロサンの名があり、更に彼がバタフライ・トリックを演じていた事実が記されていたからである(写真30)。
いままで、英国人とオランダ人のどちらに尋ねても、「ブヒクロ」という名は、彼らの国の人物名としては極めて不自然との意見をもらっていたため、どの国の出生なのか謎に包まれていたが、日本人一座の一員として行動していたのである(英国の資料では日本人とされている)。また、実際にバタフライ・トリックを演じたとなると、日本人芸人から即席に教えてもらってできるものとも思えず、一座の日本出発前にこの日本手品を身につけていたと考えることもできる。そして何よりも、日本人芸人を組織し豪州に旅立たせた仕掛け人の役割を果たした人物だった可能性が高い。ブヒクロサンという不可思議な名前と考え合わせると、もしかしたら、日本生まれのハーフもしくは2世の可能性もあり(すなわち日本国籍)、渡航を果した初めての日本人芸人かも知れないと思いはじめている。
こうして、1887年に渡英したジンタローの足跡をたどる話の結末は、イギリス・日本・豪州を巡りめぐって、再び、1860年代の開国直後の日本に立ち戻ることになった。そして追い打ちをかけるように、タンナケル率いるRoyal Tycoon Japaneseの一座が1869年2月15日から開演する旨の広告がPreston Guardian紙に載っていたのが見つかった。以後1870年代から1880年代にかけて数多くの日本人のパフォーマンスをImpresario(事業主・団長)として関わっていることが数多くの新聞記事で確認できる。ブヒクロサンは、初期の日本人芸人が国際的な活躍の場を求めて出国するに際し、その渡航や現地生活をサポートした重要な水先案内人だったのである。この結果、彼の日本人村に至る職業名の履歴の記述もすべて氷解した。
注7: この一座は、それを率いた人物の名前をとって通称「レントンとスミスのグレート・ドラゴン一座」と呼ばれている。