台覧は4月20日に葉山の御用邸で行われることに決まりました。もともとは吉備楽(雅楽の一種)の演奏が20日と21日に予定されていましたが、20日を手品に振り替えて実現したのです。当日は宮内庁の職員が2時にバートラムが泊っている帝国ホテルにきてその日の予定を再確認し、最寄りの新橋駅から逗子に向かいました。
到着後、駅頭に待たせてあった人力車に乗って、7マイル(11キロ)先の御用邸に向かったことなどが ”A Magician in Many Lands” に詳しく記されています。
御用邸は純和風の木造建物で、バートラムは飾りを排したその佇まいに感心し、畳や襖でできた控の間に丁重に案内されました。隣の部屋で演技をすると知らされ準備を整えました。ほどなく別室に案内されて純欧風の夜食が振る舞われています(very excellent European dinner was provided for me)。当日の豪華な夕食のメニューは『行啓録』に詳しく記されており、それをバートラムも食したように読み取れます。
実際に演じたのは7時から8時半までの正味一時間半、控の間に隣接した表謁見の間で行われました。皇太子殿下はフランス語で歓迎の意を示され、実演に際しては、有栖川宮威仁親王夫妻(そばに別邸があった)、三宮義胤式部長(欧州渡航経験豊富)、柳原愛子権典侍(皇太子の生母)など皇室関係者と数人のお付きも陪席して一緒に楽しんだことが行啓録から読み取れます。
事前に提出された演目リストによれば、得意としたカード手品以外にも、指輪やコインを使ったもの、手拭袋を使ったもの(エッグバッグか)、植木の花作り(植木鉢の木から花が咲き出てくる現象か)などを演じたようです。
最後の旗の手品というのは、バートラム自身の記述によれば、何枚かの小さなティッシュ・ペーパーの中から鈴多くの小さな万国旗を出現させるもので、この時は散らばった万国旗を皇太子殿下が床に四つ這いになって拾って子供のように喜ばれたように記されています。
演技の途中では皇太子殿下がテーブルに近づいて道具を調べられたともあり、その行為に当惑したバートラムは「演技中は椅子に座って見ていただくように」とお願いするなどやりにくかった側面も吐露しています。
演じられたのが具体的にどんな手品だったのかは興味深いものがあります。「カードトリック」は元々バートラムの得意とするところで、選ばれたカードをバラバラにテーブル上に並べたカードの中から客が選んだカードを目隠ししたままナイフを突き刺して当てる “Card Stabbing” や、パームやパスを駆使した “Cards Up the Sleeve”(袖に通うカード)などがありますが、前者は家具を傷つけるので多分演じられていないと想像します。
「指環(指輪)の手品」は3種類程好んで演じていました。ココナツ・レモン・玉子・クルミを準備の上、客から借りた指輪を紙に包んで消し、更にクルミ・玉子・レモンを順次消していきます。最後にココナツをハンマーで割ると、レモンが中に飛び込んでいて、更にレモンをナイフで切ると玉子やクルミが次々とその中に見つかり、最後にクルミの中から客のリングが出てくるという ”Succession of Surprises” が有名です。また、借りた指輪にリボンを結んでから、フライパンを取り出し、その中に玉子を割って具を入れて混ぜたものを流し込み、更にリングも放り込んでから火を付けて蓋をする “Fairly Omelet” というトリックもありました。蓋を取り除くと何と出来上がったのはオムレツではなく、首にリボンを付けたハトが出てきて、その首のリボンに客の指輪がぶら下がっているという現象です。また両端を保持してもらったウォンド(短い棒)の中央に借りた指輪を貫通させる “Ring on Wand” も得意としていました。
「銭(コイン)の手品」は彼の得意技だった空中からお金を無尽蔵に掴み出してくる “Aerial Mint”だったと考えられます。空のシルクハットを手にして、空中や客の鼻先からコインを掴み取っていくもので “Miser’s Dream” のタイトルで今日も好んで演じられているものです。
「旗の手品」についてはその演技詳細と解説が ”Isn’t it wonderful”(1896, Charles Bertram著)に描かれています。これは冒頭で紹介した1881年のプログラムに既にあって “Congress of Nations”として演じられています。
袖の中には何も入っていないことを示すために腕まくりして演技に入ります。色違いの3枚のティッシュ・ペーパー(それぞれ30cm角の大きさ)を取り出して見物人に手渡し確認してもらったのち、それを手の中に揉みこむとティッシュが見えなくなって、代わりに三種類の色が付いた数百の小さな旗(大きさは7.5cm×5cmほどのもので、それぞれに細い棒が付いている)が湧き出てきてお客さんに渡していくという現象です。「まだ貰ってない人はいますか」と尋ね回り「私はまだ貰っていません」という声に応えて再度両手を動かすと、最初手にしていた3枚のティッシュ・ペーパーが出現し、これを更に揉み動かすと突如演者と同じほど大きいユニオンジャック(その場に応じて他の国旗)が出てきて大きな拍手を受けるという手品です。カラフルで笑顔が溢れたフィナーレの様子が目に浮かびます。
すべての演技が終わると皇太子殿下から「不思議で素晴らしかった」との声を掛けられ、サイン入りの写真を所望されたとのこと。別室に引きさがったところで丁重に下賜を受け、帰路は流暢な英語を話す有栖川宮威仁親王に東京まで送ってもらったと記されています。この日に備え、威仁親王は霞が関にあった有栖川宮邸から別邸に前もって移動されており、バートラムを歓迎していたことが伝わってくるエピソードです。
翌21日の『行啓録』の記録を見るとバートラムに渡された下賜金は350円という多額なものだったことが確認できました。当時の高等文官試験に合格した高等官(現在の国家公務員上級職)の初任給が50円だったことを考えると、演芸を御覧になる機会の少ない皇太子殿下のために急遽都合をつけてくれたバートラムへの御礼の気持ちを表したものだったのかも知れません。ちなみに翌日の吉備楽(複数の人が演じる)に対する下賜金は100円でした。
結局のところ、バートラムによる陛下への天覧は実現するに至りませんでした。皇太子妃殿下は臨月にあり、実演を行った日から9日後の4月29日に後の昭和天皇になるお世継ぎがご降誕されました(迪宮と命名)。天皇家の慶事に際して新たな演芸の予定を組めるような状勢ではなくなったものと考えられます。
バートラムはそのまま都内をはじめ、日光や箱根にも足をのばして観光を楽しんだものの、期待していた日本人手品師との出会いは叶わないまま離日しました。寄席関係者との接点を持つ間もなく英国領事館から呼び出しが掛かってしまったからなのかも知れません。
ちなみに当時の東宮大夫(東宮職のトップ)は中山孝麿侯爵で、バ-トラムの芸の台覧を実現するためのアレンジを急遽差配する立場にありました。その中山侯爵は東宮大夫を辞したあとの明治42年の12月5日、皇太子殿下を自邸に招いていますが、その時の余興に手品がありました。皇太子がバートラムの演技に大層喜んでいたことを覚えていた中山候だからこその配慮だったのかも知れません。この時皇太子は、まだあどけない3人の皇子を従えての行啓でありお子さんにも喜んでもらえるものをと考えて余興を組んだのでしょう。
同行された皇子は、裕仁親王(8歳、後の昭和天皇)、雍仁親王(7歳、後の秩父宮)、宣仁親王(4歳、後の高松宮)で、余興として演じられたのは中山侯爵自身による大弓と地天斎貞一による西洋手品だったのです。(注)
注:この中山邸で行われた余興の存在は、宮内庁書陵部で『昭和天皇実録』をまとめられた梶田明宏氏からご教示いただきました。
昭和天皇が手品好きだった話はマジック界ではよく知られていますが、その原点は裕仁親王が8歳だったこの時の余興に遡るのではないかと思えます。そしてそもそもその余興を準備した中山候を動かしたのは、元はと言えばチャールズ・バートラムがもたらした楽しいマジックが皇室や宮内庁に大いに好感をもって受け止められていたことの現れと思うのは私だけでしょうか。
いずれにせよバートラムは日本で初めて本格的な西洋風のクロースアップ・マジック(客と直接やりとりをしながら演ずる手品)を「応接の間」(西洋流にいえばDrawing Room)で演じた人物でした。それも色彩豊かに表情たっぷりに演じたのです。日本におけるクロースアップやパーラー芸としての西洋マジックが隆盛を誇るのは昭和も後期になってからですから、この場面はとても貴重なものと言ってもいいでしょう。もしこの時日本人マジシャンとの交流があったならマジック史は随分と違った変遷を示していたものと感じる歴史の一コマです。
【2017-12-11記】