東洋に旅立ったのは1899年1月で46歳の時のことでした。エジプシャン・ホールでの興行も一時期行っており、すでに有名になっていた彼は心機一転、世界漫遊に出たかったのかも知れません。途中英領のインドに2年近くとどまるなど寄り道をしていますが、上海での公演を終えた後はSaikio Maru(西京丸)に乗船し、1901年(明治34年)4月3日に長崎に到着しました。レパートリーに日本手品を加えていたほど日本趣味の彼だっただけに一度は足を延ばして本物の日本手品を見たいと思っていたのでしょう。
その彼の行跡や体験は氏の ”A Magician in Many Lands”に詳述されています(亡くなった翌年の1911年に出版)。長崎にはほとんど滞在することなく、一旦、門司まで船で行き、そこから海路神戸に向かっています。まだ山陽本線は全線開通していなかった時代でした。瀬戸内の風光明媚な景色を楽しんで居留地や貿易の町として栄えていた神戸に上陸するとすぐに同地のクラブ(The Kobe Regatta & Athletic Club)の名誉会員にされています。何せ、上海発行の英字紙The North China Herald紙が彼の評判をいち早く伝えており、王室御用達だった経歴などもすぐに英国人居留民の間には広まっていたのでしょう。そして早速クラブの後援を得て当地の劇場で何日か演ずることになりました。
ところが初日の晩、客が入場する直前になって警官がやってきました。なんと俳優鑑札(30円課税)がないかぎり興行はできないと申し渡されたのです。あわや中止と思われましたが、交渉の末、俳優鑑札ではなく、5円でもらえる遊芸稼人の免許をその場で受け、なんとか興行を許されたという顛末が彼の旅行記にありました。
彼の旅行記には西洋人の同胞の家に立ち寄ったことや、日本人の家も田舎で見かけたそれよりずっときれいなものだったなどといった印象が記されています。ただ、劇場での演じた内容については全く語られていません。ところが当時神戸で発行されていたKobe Chronicle紙にはその手練技の素晴らしさやユーモラスな演技の様子が記事になっていて、最後に「まだ目にしてない人もすでに見た人も再度見る価値が高いおすすめの演技だ」という評がありました。
神戸では4月3日を初日として、当時唯一の洋式劇場だった神戸体育館劇場で公演を行いました。ちなみにこの劇場は5月末には渡米直前の松旭斎天一が多くの外国人を相手に手応えを確認していたところでもあります。
ここで注目したいのは、神戸を去る際に「横浜や東京にいる地位ある人への無数の紹介状をもらうことができこれが大いに有難かった」と書かれていることです。
横浜に向かう東海道線の車窓からは田畑の風景や富士山の眺めを楽しんだ様子が描かれていますが、その一方で、到着した横浜が想像以上に西洋化していたことにいささか驚いたとも書かれています。その中で特に彼の眼に異様に映ったのは、婦人の多くがお歯黒にしていて気味悪かったことや、人夫以外の大多数の男性がケープ付きの長いコートと山高帽を身に付け、足には高下駄を履くという奇妙な風体に出会ったことでした。
横浜ではパブリック・ホールで4月9日から11日まで三日間演じました。開国初期のゲーテ座はすでに壊されており、現在の「港の見える丘公園」に場所を変えて客席数も増やした当地唯一の西洋劇場でした。客層のほとんどは欧州人でそれに上流階級の日本人も加わっていて大好評だったと記されています。
この横浜で、彼は大きな依頼を受け取ります。「ぜひ陛下の前で演じてもらいたい」という要請です。“Whilst in Yokohama I received a command to appear before the Mikado, or Emperor, as he prefer to be named.”とあるので依頼主の名を明かされた上での要請だったようです。急遽指定された東京の帝国ホテルに着くと英国公使館(当時はまだ大使館に格上げされる前の時代ですが今日と同じ千代田区一番町にありました)からメッセージが届いており、公使館に電話を入れるように指示があったとのこと。文面では「the secretaryと一緒にthe Palaceに車で行って、そこですべての打ち合わせを行った」とされています。多分secretaryというのは英国公使館の人と考えられますが、the Palaceがどこのことをいうのがすぐには分かりませんでした。
実はその打ち合わせで計画が少し変更になったようです。陛下への天覧をすぐに行うのではなく葉山の御用邸におられる皇太子(後の大正天皇)に見せて欲しいとの話になったのです。 そのことは “It was decided by Baron Saunomiya, that I should first give a performance at the Palace at Hayama before His Imperial Highness the Crown Prince”という文面からわかります。ここに出てくるBaron Saunomiyaという人物はいったい誰なのか、宮様らしいことは想像できたもののしばらく疑問として残ることになりました。
宮内公文書館で資料を調べたところ、東宮職が記録していた明治34年の『行啓録四』に当日までの打ち合わせの様子が日々記されていて、その中の4月18日の条に以下の記述が見つかりました。
英人手品の件ハ有栖川宮御承認ニ付御覧にナルナラバ明後二十日午後七時ヨリ九時頃迄ガ本人ノ都合宜シ至急伺い定ノ上折返シ辺アレ。番組は跡ヨリ送ル。
ここに出てくる有栖川宮というのは1898年(明治31年)から1903年(明治36年)まで、皇太子・嘉仁親王(後の大正天皇)の東宮輔導(教育指導)として任命された有栖川宮威仁親王のことであることがすぐに理解できました。バートラムは威仁親王のご称号である稠宮(さわのみや)をSaunomiyaと記していたのです。
(参考リンク:
有栖川宮威仁親王
)
有栖川宮威仁親王がどんなきっかけでバートラムの来日を知ってその演技を皇室で演じてもらおうとしたのかは定かではありません。
ただ彼は4年ほど前の1897年6月20日のヴィクトリア女王在位60年周年記念式典に天皇陛下の名代として出席した際、Prince of Wales皇太子(前述のエドワード皇太子:ヴィクトリア女王の長男)が主催するMarlborough Houseでのパーティに各国からの貴賓とともに招かれています(The Times, Jun 21, 1897)。ただバートラムがそのパーティに呼ばれていたかどうかは判然としません。
海外からの皇室の客人といえども随員の同伴が禁じられていたためその時の様子は有栖川親王の行動記録には残っておらず(威仁親王行実、巻下、p.11)バートラムの演技を見ていたかどうかは疑問です。
とはいえ威仁親王の英語力は相当なものだったようです。
17歳で英国艦船に乗船して訓練経験を積んだのを手始めにその後の英国留学など3年以上の英国生活を経験し、英語で日記をつけるほどの人物だったからです。その国際感覚を買われて、来日した国賓の接待役も任されるなど、開明派として明治天皇からも大きな期待と信望を受けていたのです。
ここで驚いたのは上記『行啓録』の4月18日付けの記事に先駆けた4月17日付けのThe North China Herald紙(上海発行の英字新聞)に「バートラムは日本で天覧演技をすることになった」という速報が報じられていたことです。
ようやく日本で初めて外国人による天覧演技に向けた調整の過程が見えてきました。バートラムが神戸で演技した直後から、彼の演技の素晴らしさと宮廷手品師として活躍していた経歴が英国人社会に広がったというわけです。多分、このことを聞き及んだ英国公使館は英国との接点が深かった有栖川宮威仁親王に一報を入れたのだと考えられます。「皇室での演技が実現したらきっと喜んでもらえると思いますが、よければアレンジしましょう」と。
上述したように、その頃の有栖川宮威仁親王は皇室の中で大役を与えられていました。明治天皇は、嘉仁親王(皇太子:後の大正天皇)に対する教育や健康的な発育に至るまで総合的にまかせる「東宮輔導」の職を明治31年に初めて設け、当初からその任を有栖川宮威仁親王に託していたのです。幼少の時から生母から離されて育てられ、弟宮や妹宮の多くを夭折で失っていた嘉仁親王は精神面や健康面で少なからずハンデを抱えておられました。東宮職の役人に任せきりではいけないとの伊藤博文の進言を受けて陛下が新たに設置したのが東宮輔導という役割だったのです。これ以降、嘉仁親王は威仁親王を兄のごとく慕ったといわれています。
さてバートラムの話が有栖川宮威仁親王の元に持ち込まれた時、親王は即座に反応され、数日とたたずにバートラムに来てもらって嘉仁親王を喜ばせたいと決断したのです。これがもし宮内庁に持ち込まれたのであれば即断することは難しかったに違いありません。その時威仁親王の脳裏に浮かんだのは14年前の出来事だったものと想像できます。それは帰天斎正一が明治20年5月に明治天皇(当時34歳)への天覧を有栖川熾仁親王邸で行ったシーンです。当時まだ25歳だった威仁親王は正一の演ずるマジックをホスト役の父熾仁親王(当時52才)のそばで一緒に観覧していました。その時すでに英国留学豊富で開明派(進歩派)だった威仁親王はマジックのエンターテインメント性を楽しんでおり、マジックが皇室メンバーにも好評裏に受け入れられることを体感していたに違いありません。
そのため東宮輔導だった威仁親王は、バートラムの演技を、天覧よりも、まずは皇太子(当時まだ18歳)に楽しんでもらう必要性を感じ、宮内庁に対して英国公使館と話を進めるよう依頼したものと考えられます。病弱だった皇太子殿下はその前年には結婚されるほどに回復されて仲睦ましい生活を送られていましたが、ちょうどこの時妃殿下は初めての出産を控えて入院されていたため、一人で過ごされていた殿下に楽しみを届けようとのアイデアが頭をよぎったものと思えます。