(おことわり…以下の文章は、映画の細部、および結末について詳述しています。未見の方は御注意ください)
今回は純粋なマジックからはやや外れますが、芸能としての読心術を描いたフィルムノワール(犯罪社会をスタイリッシュに描いた1940∼50年代のアメリカ映画。後にフランスでこう命名された。NOIRはフランス語で“黒”の意)「悪魔の往く町(TV)」(Nightmare Alley 1947年)を御紹介致します。
Nightmare Alley 1947
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エンターティナーとしての読心術師が主人公の映画には他にも「透視人間」(Clairvoyant 1935年)「夜は千の眼を持つ」(Night Has a Thousand Eyes 1948年)等がありますが、その中から特にこの作品をとりあげるのにはいくつか理由があります。
まずこの映画は、読心術を真正の超能力として描いた例えば前掲の二作とは異なり、すべての読心術はトリック・奇術であるという前提に立っていること、そして演芸として読心術を演じる者の手法・心理・環境が、とてもリアルに表現されているためです。
更に実はこのタイミングで今作をとりあげるのには、もう一つ第三の理由があるのですが、それは文末でのお楽しみ、ということにしておきましょう。
初めに映画自体について触れておきます。
監督はエドマンド・グールディング。「グランド・ホテル」が代表作ですが、たいへん優秀な演出家であるにもかかわらず、今ひとつ作品と運に恵まれなかった感があります。しかし例えば、舞台を一か所に限定し、そこに集う人々の人生を並行して描くことにより物語を進行させる作劇術を現代でも“グランド・ホテル形式”と呼称しますが、それはこの映画に由来します(「グランド・ホテル」は元は舞台劇)。グールディングは撮影・美術等の映像面よりも俳優の演技を重視するタイプの演出家ですから、「グランド・ホテル」の監督には正に適任であったと思われます。
「グランド・ホテル」ポスター |
ウォレス・ビアリーと ジョーン・クロフォード |
原作はウィリアム・リンゼイ・グレシャム。出版後一年での映画化ですから、当時かなりの話題作であったことが偲ばれます。この原作は出版から70数年後、最近になってようやく翻訳出版されたのですが、その理由についても後程…。映画冒頭のクレジットにマジック・トリック監修者の名前が無いにもかかわらず、前述した通り登場する読心術師の描写に説得力があるのは、このグレシャムの功績と思われます。執筆にあたり、実際ニューヨーク・コニーアイランドのカーニバルに長期取材をして作品にその知識・経験を活かしたためです。その縁でしょうかまた彼は、後年フーディーニの有名な伝記も執筆しています(‘HOUDINI The Man who Walked through Walls’1959年。長大な力作であり、本国では何度も版を重ねていますが、残念ながら未訳)。
HOUDINI The Man who Walked through Walls 1959年
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主演はタイロン・パワー、当時の大スターです。それまでハリウッドの典型的な二枚目役ばかりを演じてきたパワーが、初めて陰のある汚れ役に挑戦した作品として有名ですが、一説にはこの映画は、紋切型の役回りに限界を感じたパワー自身の企画によるものとのことです。
以上のスタッフ・キャストの陣容からも分かる通り、本作はかなりの大作であり、上映時間も当時としては長い110分を超えます。FOX撮影所に巨大なセットが建設され、エキストラには火吹き等プロの芸人が多数集められました。作品自体の評価も悪くはないのですが、残念ながらあまりヒットしませんでした。
その理由についてですが、映画及び原作の原題“Nightmare Alley(悪夢の路地)”も、衛星放送にてテレビ放映の後DVD発売された際の邦題「悪魔の往く町(TV)」のどちらも、まるでホラー映画のようで今ひとつ作品内容を的確に表現し切れていない思いが残ります。しかしここではそれは問いません。ただ多くの観客の目に触れなかったのを一番喜んだのは、もしかすると当時の偽読心術師達だったのかも知れません。作中、その様々な手口が暴露されているためです。
大別して読心術にはホットリーディングとコールドリーディングとがあり、演者が予め被験者(観客)の情報を何らかの方法で入手して当ててみせるものがホットリーディング、予備知識なくその場で即興に当て(たようにみせ)るものがコールドリーディングと呼ばれます。この映画には、その両方が描写されています。もちろん電子機器の進歩等はありますが、約3/4世紀が経過した現在も、読心術の基本原理にほぼ変化はありません。
以下ストーリーを追ってゆきつつ、折りに触れ読心術のトリックについて解説してみたいと思います。
ファーストシーンはカーニバルで、ギークの芸が演じられています。
芸の内容上カメラではっきりと捉えられないため、この映画を解説した文章の多くであやふやな、もしくは誤った説明がなされているのですが、ギークとは何かを把握していないと映画ラストの哀しみは伝わりません。通常、英語のGEEKは変人・おたく等と訳されますが、見世物用語でのギークというのは野人・獣人の意味で、生きた動物(この映画では鶏)を噛み千切ってみせる野蛮芸のことです。そのギークを見ながら「よりにもよってギークをやろうなんて思うのは、いったいどういった人種なんだろう…」と感想をもらすのが、主人公のスタン(タイロン・パワー)です。
それに対しスタッフは「彼も以前は立派な芸人だったのだが、アルコールのせいですっかり身を持ち崩したのだ」と答えます。このシーンは実は、ラストのための重要な伏線なのですが、前半のさり気ないシーンが全て、クライマックスのための見事な伏線になっているのがこの映画の特徴です。例えば後のシーンで、酔っ払ったギークが暴れ出すのも、ラストに皮肉な意味を持って再現されます。
当時の20世紀FOX重役ダリル F.ザナック(「ジョーズ」のプロデューサー、リチャード D.ザナックの父)は、本作を脚本の鑑として褒めそやしました。
続いて演じられるのが、中年夫婦のコンビ、妻ジーナと夫ピートによる読心術です。助手のスタンが客席をまわって観客達に質問を記入させ、その紙片を回収するとアルコールをかけて燃やしてしまいます(英語のSPIRITには、霊と酒の両方の意味があることに掛けた洒落。このアルコールがやはりストーリー展開の伏線となる)。
ところが舞台上のジーナは、次々とその質問に答えてゆきます。いわゆる“Q & Aテスト”です。実は、スタンが客席から舞台に上がる間に密かに紙束をスイッチしてしまい、偽の紙束の方に点火します。本物の紙束を渡されたピートが観客の死角で質問内容を読み、それを大きく黒板に書いて舞台上のジーナに見せていたのです(手法としては、ホフジンサーのブックテストに近い)。ジーナにこの仕事が好きか尋ねられ、それに対してスタンが「天職ですよ」と答えるのも、後に重要な意味を持ちます。
終演後スタンはピートと会話を交わしますが、その中で子どもの頃犬を飼っていたことをずばり当てられます。心を読まれたスタンは驚きますが、ピートはすぐに「子どもの頃は一度くらい、誰だって犬を飼ったことがあるものさ」と種を明かしてみせます。メンタリズム・メンタルマジックでは、赤やバラ、椅子や37等のサイコロジカルフォースが有名ですが、さしずめ日本の占い師ならば「お宅の庭には、松の木が有りますね…?」といったところでしょうか。(昭和の時代の民家には、松の木があることが多かったそうです。因みにもし否定されても「それは良かった!もし松の木が有ったら雷が落ちて、今頃たいへんな惨事になるところでした」と言えば、相手はいずれにせよ悪い気はしません。正に、表が出たら僕の勝ち・裏が出たら君の負け、です)
ところでピートは重度のアルコール中毒です。以前は演者と助手との間で言葉のサインを送る、素晴らしい“ツーパーソン・テレパシー・アクト”を演じていたのですが、中毒でそれもままならなくなり、やむを得ず紙束すり替えの安易な手口に乗り換えたことをスタンは知ります(ツーパーソン・テレパシーについては、コリンダの13ステップス・第8章等を参照。奇しくも同書は、グレシャムによるフーディーニ伝記と同年の出版です)。
13 Steps to Mentalism by Tony Corinda
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そんなおり、手違いからメチルアルコールを飲んでしまったピートは、運悪く死亡してしまいます。物語上ピートの死因は何でも良いのですが、その原因となるメチルアルコールが御都合主義で唐突に登場するのではなく、予め読心術ショー内で紙束点火用にさり気なく使用されている脚本の緻密さに感心します(間違ったボトルを渡してしまったのはスタンであり、過失とはいえ彼は以降その罪悪感にずっと苛まれ続けることになるのですが、この設定はスタン=パワーを観客の共感を得られる人物として描きたい、ダリル F.ザナック自身の指示によるものです)。そこにスタンが名乗りを上げ、遺されたジーナと二人で往年のテレパシー・アクトを復活させると、新コンビは大成功をおさめます。
その頃スタンは、電気人間を演じる一座の花形、モリーと次第に恋愛関係となります。電気人間も実在のアクトで、身体に電流を流すと様々な疑似科学的現象が起こる、というものですが、劇中では指先からテスラコイルのごとく放電が迸ります。もちろん実際に演じられるわけではなく、映画の特殊撮影効果による表現で、アニメーションを光学合成した映像です。担当したのは「雨ぞ降る」「地球の静止する日」等の名手、当時のFOX特殊効果部長フレッド・サーセン。
そんな時一座に、突然警察の手入れが入ります。容疑はギークの不法就労・動物虐待及び、モリーの衣装の露出過多。衣装については、電気による布地の発火を防ぐため、と弁解します。一見モリーの持ち芸はジャグリングでも何でも良いような気がしますが、きちんとこの言い訳のための伏線になっているところが流石です。
その警官を追い返すため、スタンは咄嗟にマジックで彼のポケットから紙幣やシルクを取り出し(演技上のトリック)、更に読心術で過去を当ててみせます。
このシーン、及びこの後女性精神科医のプライベートを当ててみせる手法については明確な種明かしがなされないのですが、ここまでの流れから類推すると、この読心術は“犬を飼っていた”式の高確率に頼るものと、相手の容姿や言動から類推する“シャーロック・ホームズ”式とを組み合わせたものと思われます(同じ描写を何度も繰り返さない、いわゆる“映画的省略”)。どちらも、典型的なコールドリーディングの手法です。
この警察介入の一件を契機に、スタンはコンビのジーナを見捨て、若いモリーと共に一座から独立します。演目はもちろん、サインを用いたツーパーソン・テレパシー・アクトです。
このデビューは大成功を収め、二人はザ・グレート・スタントンとしてシカゴの一流ホテルに出演するようになります。
このホテルでのショーで、スタンは女性精神科医、リリスと知り合います。そしてリリスを通じて、街の上流階級のプライベートな情報を入手、それを読心術アクトに悪用するようになってゆきます。こちらは典型的なホットリーディングであり、現代の自称超能力・霊能力者あるいはメンタリストであれば、さしずめTVスタッフやインターネット等を利用するところでしょう。
そんな名士の一人グリンドルが、亡くなった娘ドリーにひと目会いたいと切望していることを知ったスタンは、リリスを通して娘の写真を入手、モリーにその扮装をさせて交霊術を行い大金を手にしようと企みます。グリンドルは超能力や心霊を一切信じていなかったのですが、このいかさま交霊術はまんまと成功、グリンドルは娘の霊の存在をすっかり信じてしまいます。
ところが、そのグリンドルの姿にいたたまれなくなったモリーが全てを自供、あと少しのところで会は修羅場と化します。その上、莫大な出演料も入手し損ねてしまいます。
警察に追われる身となったスタンはモリーとも別れ、何処へともなく隠遁します。ホームレスを集めて昔犬を飼っていたことを当てて見せても、馬鹿にされるばかりです。ここで、冒頭近くのスタンとピートのシーンとの落差が、皮肉なかたちで観客の胸をうちます。
万策尽きたスタンは、飛び込みでとあるカーニバルに自身を売り込みますが、読心術師もマジシャンも間に合っていると剣もほろろです。そんなスタンの耳にカーニバルの責任者は、こう囁きます。
「そうだな…ギークで良ければ、仕事をやろうか?」それに対するスタンの返答はこうでした「…天職ですよ」
場面は変わってカーニバルのシーン。登場したギークは、落ちぶれたあのスタンの成れの果てでした。
ある夜、すっかりアルコール中毒となったスタンが暴れていると、そこで偶然再会したのは何とあのモリーではありませんか。二人はその境遇を嘆き、しっかりと抱き合うのでした。
映画を締め括るのは、その様子を見ている二人の男の会話です。「しかしよりにもよって、あれがかつて一世を風靡したグレート・スタントンの変わり果てた姿とは、やつもまぁ落ちぶれたもんだ」
「いや、彼は堕ちたんだじゃない。ただ昔、少し背伸びをし過ぎただけさ…」
以上がこの映画の大まかなストーリーですが、ギークを軽蔑するスタン、夜中に酔って暴れるギーク、飼い犬の読心術、天職だと言う科白、それら全ての伏線がラストに向け収束してゆく構成は見事です。
個人的には、ラストのモリーとの再会は蛇足かつ出来過ぎた偶然で、スタンのギーク登場→男二人の会話、で終えた方が衝撃的かつ説得力ある幕切れとなったように感じます。もっとも、大スター=タイロン・パワーの落ちぶれた姿でエンドマーク、とする訳にもいかなかった大人の事情も理解できます。
未読ですが、やはり原作は映画よりも更に陰鬱な内容であるとのことです。そのグレシャム本人は、以後の作品に恵まれずアルコールに溺れて夫婦関係も破綻、最期はコニーアイランドのディキシーホテルで自ら命を絶ちました。まるで己の作品と実人生とがぴたりと重なってしまったかのような皮肉な一生です。
因みにそこは、彼が人生の絶頂期にカーニバルを長期取材するために宿泊した、正にそのホテルでした。今際(いまわ)の際にグレシャムの心に去来したのは、果たしてどのような思いだったのでしょうか。それを思うと、辛くなります。
…やや感傷的になり過ぎましたので、最後に明るいニュースを一つ。
この映画「悪魔の往く町 (TV)」は、「パシフィック・リム」等で有名な監督ギレルモ・デル・トロによりリメイクされました。状況は予断を許しませんが、現在のところ‘Nightmare Alley’のタイトルで、全米は本年クリスマスシーズン、日本では2022年2月25日に公開の予定です。
どのような内容なのか21年10月現在情報は極めて限られていますが、デル・トロは‘Vanity Fair’誌のインタビューに答え、「リメイクではなく、新たな映画化」と証言しています。であればファンタシー・SF一筋のデル・トロのこと、スタンの超能力は真正のものという解釈がなされ、カーニバルには本物のモンスターが多数跋扈、タイトルに相応しいVFX満載の内容に改変されているのでは、と予想していました。
…が、逆にそうではなく、“原作を尊重する”“従って超自然の要素は介在しない”“アメリカのレイティングはR指定(=子どもには適さない内容)”等の情報が公開されています。ならば個人的には、一時期メンタリズムといえば“心理学の応用のみで100%に近い確率で現象が起こせる”かのような、事実とは乖離した番組やドラマが氾濫しましたが、このリメイクがメンタリズム本来の姿を描出し、そのイメージを少しでも是正してくれれば、と期待しています。いずれにせよ、無事公開されることを願って止みません。
私が今回この作品をとりあげた第三の理由、及び原作が最近になって初翻訳された事情を伏せてきたのも、そしてあえて題名に対する苦言を呈させていただいたのも、実はそのためでした。
映画に倣い、文章中の伏線が結末できれいに回収される構成を狙ってみたのですが…
いささか心許ない思いですが、果たしていかがでしたでしょうか。
(今回の原稿執筆にあたり、「興行師たちの映画史」[柳下毅一郎著 青土社]がたいへん参考になりました。
この場をお借りしてお礼申し上げます)
※参考映像:
フィルム・ノワール ベスト・コレクション「悪魔の往く町」DVD(ブロードウェイ)
※画像出典:
IMDb(Internet Movie Database)
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