ただ、自称三代目一蝶斎が一人だったとしても本来の二代目とは一蝶斎の名を巡って悶着が生じることに変わりはない。
ところで、その長七郎(生駒近江大椽)であるがオーストラリア巡業では座長格であったにも関わらず
契約の満期が来たのを機に一人早々と帰国の途につき明治7年の暮か翌年早々には日本に戻ってきた。
他のメンバーが全員何らかの形で仕事を続けることを選んで現地に留まったのとは対照的で、
この辺にも長七郎の自己中心的な行動様式が垣間見られる。
そして彼が帰国した途端、案の定大きなトラブルが起きることになった。
驚いたことに長七郎は彼にとって目の上のたんこぶである二代目からなんと一蝶斎の名を取り上げようとする挙に出たのである。
明治9年5月の「落語業名鑑」の寄席芸人一覧でそのことが読み取れる。柳川一蝶斎の名は最下段中央の若干右寄りにあるが、これは自称三代目の長七郎であって二代目一蝶斎(大治郎:初名「文蝶」)ではない。二代目は一人置いてその左にある文蝶斎の名で出ているからである。この名鑑を初めて目にした際には、混乱を避けようと二代目は一蝶斎の名を三代目に譲り、自らは昔の名にちなんで文蝶斎と名乗ったのであろうかとも考えたが、もしそうだとすると後年の青木治三郎は四代目一蝶斎でなくてはならず説明がつかなくなるという矛盾を感じていた。
そして今回、二代目がこの名鑑が出たあとも一蝶斎として活動している史料が見つかった。従って、二代目が長七郎に遠慮して文蝶斎に名を変えたとは考えられず、長七郎が柳川一門の代表格とばかりにこの名鑑の発行元(あるいはまとめ役である落語業の頭取の元)に柳川一門の一覧をこのように表示するよう半ば強引に依頼したものと解釈せざるを得なくなったのである。名鑑の中での格付けとしては一蝶斎(自称三代目)も文蝶斎(二代目一蝶斎)も共に「上等」となってはいるものの二代目の怒りやいかばかりだったであろうか。
実際、二代目は少なくとも明治10年までは引退することなく活躍していたことが新たに確認できた。それは海軍省が川村純義海軍大輔宛てに提出した「御雇教師英国人為御饗応手品師雇上ケ等之義ニ付御届」にあった。雇い入れた外国人技師を歓迎するために手品の余興を企画したことを示した文書であるが、添付されている「手品番組下書」を見ると予定されている九つの芸を柳川一蝶斎とその忰(せがれ)鬼一郎が演ずることになっていた。この鬼一郎というのは『実証・日本の手品史』の中で示したように二代目一蝶斎(本名は大治郎で初名は文蝶)の息子のことである。当時の二代目はまだ50歳代だったと考えられる。
ではそれまでの間二人の一蝶斎はどのように互いに牽制し合っていたのだろうか。鉢合せをしないように別行動を心がけたとしても世間からは恰好の噂のネタになったはずである。結局のところ、正当性がないまま三代目を名乗っていることが内外から批判されたであろう長七郎は一蝶斎を名乗り続けることが困難になったのではないだろうか。そして最終的には歌舞伎への転身を試みたことをうかがわせる記事が東京曙新聞で報じられている。
放下師にては雷名世上に轟し門閥家の三代目一蝶斎は此ごろ大坂に於て
梨園に入り市川男女蔵と改名して道頓堀角の芝居へ出勤するといふ。
(東京曙新聞:明治12年5月5日)
東京から離れ、手品師稼業にも終止符を打ったように見える記事であるが、歌舞伎役者の系譜と照合すると三代目市川男女蔵の前後に一時期市川男女蔵の名が途絶えている時期があったようだ。そして長七郎はそのタイミングで市川男女蔵を名乗るべく歌舞伎界への転身を画策したのではないだろうか。ただ思惑通りに成功したことを示す記録は見つかっていない。
一方、二代目の方はその後しばらくしてから下総の飯岡に移り住んで寄席を始めるのであるが、息子の鬼一郎を正式な三代目に育てようと初代の直弟子だった弟弟子の青木治三郎(当時は蝶之助から春風蝶柳斎に改名している)にその育成を委ね、明治18年に没している。
その鬼一郎は、修行を積んで腕を磨き続け、柳川成一郎、柳川蝶吉、柳川蝶太郎と順次改名していくことになるが、結局のところ一蝶斎の名に値するほど大成するには至らなかった。このままでは一蝶斎の名が途絶えかねない状況になった明治25年、指導していた青木治三郎(春風蝶柳斎)が天覧の栄誉を授かることになった。これを契機に治三郎自身が三代目一蝶斎の名を継ぐべきだとの機運が一気に高まり、名実ともに日本手品の名人になった治三郎もようやくその声に推され正式に三代目が誕生することになったのである。
三代目一蝶斎(青木治三郎) |
瑞松院(東京都台東区谷中)にある碑 |