『実証・日本の手品史』(東京堂出版, 2010)が出版になって二年余が経ちました。多くの史家からも好評をいただき手品史が幅広い層の関心を得ていることを改めて認識しました。一方、史料のディジタル化が更に進み研究家同士の交流も深まる中、新たな一次資料が引き続き掘り起こされています。
この結果『実証・日本の手品史』の内容についても一部の見直しや増補余地が増えています。ただ部数が限られている特殊な芸能分野の本だけに増補改訂版を出す計画はいまのところありません。そこでこの場をお借りしいくつか手を加えておきたいところを記すことにしました。
なお、ここでは書籍中で触れた内容に直接関係することについて追記することにし新たな章を必要とするようなトピックは扱わないこととします(そちらの方は一部「マジック史の新発見」の方で記すことにします)。
幕末に西洋との交流が始まって以来、海外に初めて伝わった日本手品はバタフライ・トリック(紙で作られた蝶が舞う手品)とされています。
それが西洋に初めて伝えられたのは1858年夏に日英修好通商条約の締結に向けて来日した英使節の一員シェラード・オズボーンが英雑誌”Blackwood’s Edinburgh Magazine”に寄稿した日本での体験記でした。
1859年5月のことで柳川豊後大掾(初代柳川一蝶斎)の演技を報じたものです。
以後この体験記は英米の他の新聞にたびたび掲載され広く知られていきます。ただ実際に初めて欧米で演じられるようになるのは1864年の4月の事で、1863年に来日したワシントン・シモンズ(後のドクター・リン)が日本で習得したバタフライ・トリックを帰国途上の米国で演じたのが最も早い記録として確認されています。
シモンズはその後に博士号を取得したとしてドクター・リンの名で1866年4月に英国のエジンバラの劇場に現れそこでバタフライを演じているため、これが欧州でのバタフライの初演と考えられます。
一方、日本人自身が演じたものとなると
渡航が許されたあとに米国に向かった芸人一座の隅田川浪五郎と欧州に向かった一座のアサキチがそれぞれの地で1867年初頭に演じたのが最初の演技となっています。
以上が『実証・日本の手品史』を著した時点で明らかになっていたことです(第一部の第一章と第二章で記述)。ところがその後の調査の進展によって、これらのほとんどの記録が更新されることになりました。
まずは、海外に報じられたバタフライ・トリックの初報ですが、それはオズボーンの記事より半年も早い1858年11月のPhiladelphia Ledgers紙(米紙)にありました。すでにラビリンス内の「マジック史の新発見」で紹介しましたので詳しいことは省きますが、
米国のタウンゼント・ハリスが英使節に先駆けて江戸に滞在している間に柳川豊後大掾の蝶の演技を見る機会があり、その時の印象を黒船の士官だったアレックス・ハーバーシャムに語ったことから彼を通じて当該紙に掲載されていたのです。
ドクター・リンによる欧州での初演についても新たな資料が確認できました。彼は英国本土に戻る前にアイルランドのコルク、ベルファスト、ダブリンといった各都市に滞在しその地の劇場で興行していることが確認できたのです。下記の記事は1865年7月9日の新聞にコルク市でバタフライ・トリックや曲独楽を演じたものでこれが現時点における欧州での最も古い記録です。
一方、日本人が西洋で演じたバタフライ・トリックを遡って追いかけていったところ隅田川浪五郎に第一号の旅券が下付された 1866年よりかなり前に別の日本人が演じていたことが分かりました。それは幕府による初めての使節がワシントンに行った1860年のことで、「万延元年の遣米使節」と言われる一団の中の人物が米国の新聞記者を相手にして演じたものです。 すでに日米修好通商条約が締結されてはいたたものの批准書の交換は ワシントンで行うことになっていたため徳川幕府は正使三人を代表とする使節団を米国に送ることを決め、勝海舟を船長とする咸臨丸が随行したというあの使節です。
問題の場面は首都ワシントンのホワイトハウスに出向いた正使が大統領と批准書を交換し 大きな任務を果たしたあと、そのままウィラード・ホテルに滞在して三週間ほど 市内の各所を見聞しながら過ごしていたときのことでした。
宿泊中の日本人を一目見ようとホテルには政府関係者の家族や記者以外にも
市民など連日多くの人が訪れていましたが、
その様子を伝えたニューヨーク・ヘラルド紙の6月2日の記事が該当の部分です。
そこには5月30日に取材した時のことが描かれていました。
その日の夕刻は三使が故ペリー提督の義理の弟にあたるSlidell上院議員の邸宅に招かれホテルをあとにしたところでしたが、ホテルで取材していた記者が立石斧次郎という若者に出会った様子が報告されています。
弱冠17歳に過ぎない通訳補佐の立石斧次郎は経験を積むために随行を許されていた人物ですが、
慎んだ行動を心がけていた大人とは対照的に持ち前の好奇心のおもむくまま
素直に振る舞う姿が話題を呼んでワシントンに着くころにはTommyの愛称で
大変な人気になっていました。
加えて、彼は未だ可愛さも残るイケメンボーイだったため上流階級の女性も
彼の近づきになろうと群がり、また英語も話せるということで
記者にとっても格好の取材対象だったのです。
以下の引用部分には、ヘラルドの記者がホテルで偶然出会ったTommy(斧次郎)に斧次郎のことを報じた紙面を見せてオシャベリをした様子が描かれていますが、
中ほどの段落のところからバタフライ・トリックを見せてもらったことが書かれています。
それによると、演者はフロアにしゃがみ込んで目の前に火を点けたローソクを配したあと、
ティッシュをねじって蝶々をかたどったものを空中に投げあげ、それを短冊状の薄い紙の束を使ってあおぎながら前後に浮遊させたり、火の周囲を舞わせたりしたとあります。ティッシュがまるで本物の蝶に見えるだけでなく、火の周囲を舞う姿が花に戯れる様子にも見えたと記しています。
記者が「蝶を二羽飛ばせたらもっと面白いのに」というと、演者は蝶を二羽に増やして遊ばせたとも描写しています。
ただこれを演じたのが斧次郎だったかどうかは即断できません。段落が改っていることや主語がthe performerとしか表現されていないためで、米国の友人に聞いても判然としないということでした。とはいえ別の人物が演じたのであればその人物の名前を出すのが自然ですから斧次郎自身が演じて見せた可能性が極めて高いといえます。
いずれにせよ使節一行には手品師が同行していなかったことが確認できています。従って、使節団にいたこの従者が手品を愛好していたことは間違いなく、またローソクをわざわざこの演技のために持参していたことや、記者の記事に一切仕掛けを見破ったような気配が感じられないことからこのような機会が訪れることを想定してかなり練習を積んでいたことがうかがえます。
手品師でない素人が「蝶」を演じている様子を記した事例は他にも見られるため、
柳川一蝶斎が1800年代前半に完成させたとされる「うかれの蝶」(バタフライ・トリック)は数十年経ったこの頃すでに多くの人の知るところとなって余興に興ずる人がかなりいたものと想像できます。
加えてもう一つ注目すべきは、当時これを見た人がその演技を伝えた描写の中で、演者が火を灯したローソクを前に置いて演じていることを報じている事例が多いことです。実は、その当時の西洋におけるブラックアート(手品の一分野)でも強いガス燈を前面に配してその効果を高めていたことは良く知られています。
このことからローソクの光をバタフライの演技に使っていたのは
舞台を照らすだけではなく、至近距離でもタネを
見破られにくいようにする工夫だったと考えられます。
現在では明るい所でも見えないインビジブル・スレッドが手に入りますが、そのようなものがない時代なればこその貴重なノウハウだったに違いありません。洋の東西を問わず同じような原理が手品に使われていたことを示す面白い事例といえるのではないでしょうか。