松山光伸

天一と天勝が吹聴した「ホラ話」(補足)

 米国東海岸の高級別荘地ニューポートでカーネギー未亡人主催のダンスパーティに天一・天勝が招かれたという話は、実際にはフィッシュ夫人の会であり、本当にそこで評判になったのかという疑問についてその実態を調べてきた。また、この件がどうしてカーネギー未亡人のパーティの話にすり替わったのかについても推論を行った。 ところが、その後新たな材料が見つかり、若干想像していた経緯が違っていたことが見えてきた。ここに追記して推論を補っておこう。

天一自身が言い直していた主催者の名前

 明治38年5月19日に帰国した直後、天一は「報知新聞」の求めに応じて外地での体験談を披露し同月25日からその連載が始まった(実際にはカリフォルニアでの失敗話に触れて間もない同月31日で中断)。伝記小説によればこれとは別に「時事新報」の取材も受け連載したようになっていたが何故かその事実はない。 ところが「大阪毎日新聞」の9月末に三日連続の連載が見つかった。歌舞伎座での帰朝公演のあとのことである。取材は「大阪毎日新聞」からのものだったが天一は新聞社名を以前から馴染みのあった時事新報と勘違いし、それがそのまま後年の伝記に反映されてしまったという経緯のようだ。その「大阪毎日新聞」の9月25日号にニューポートの話が語られていた。そしてなんとそこにカーネギーの名が出てくるのである(※)。

  米国のニウポートと云ふのは 該地(あのち) の避暑地で、例のモルガンだのその他有名な金満家の別荘が沢山ある土地ですが、 私は 一日(あるひ) カーネギー氏の別荘の宴会に招かれました。其時は公園地のハアプーで興行中でしたが、参つて見ると御婦人ばかりの御宴会で、最初に驚いたのは 當国(こちら) で云ふと玄関(わき) の處にある傘置きです。その傘置きに無造作に突込んである女持の 蝙蝠(こうもり)傘の柄を見ますと、イヤ実に目を驚かす(ばか)りの宝石が その握りの處に幾個(いくつ)となく 附着(くつゝけ)てありまして、 燦爛(さんらん)たる 光沢(ひかり)は大したもので、 何程(どの)位この柄に金をかけたものとも解らない位でした。・・・


 すでに紹介したように、明治35年10月9日の読売新聞は一座の近況として、フィッシュ夫人のダンスパーティに招かれたことを正しく伝えている。天一自身がこの文面を記していたのかどうかは定かでないが、留守宅や新聞社宛となれば天一自身か息子の天二の手によるものだろう。

 では主催者の名が変わってしまったのは何故だろう。想像するに、天一は三年前のパーティの主催者の名を思い出せなくなっていたのではないだろうか。きっと取材者はそんな天一に「大富豪ならカーネギーとかそんな名だったのではありませんか」と投げかけ「そういえばそんな名だった」といったやりとりがあってこのような記事になったと考えられよう。とはいえこれだけのパーティに招かれ、その後も折に触れて自慢話として披露するほどのものであれば、実際に出合った主催者の名を忘れるというのは如何にも不自然である。

 そういった疑問を取り除いてくれる可能性は一つしか思いつかない。それは、ニューポートに日本人一座が来ていたことを知ったフィッシュ夫人からたまたま招待を受けたものの、演技場所の下見や事前打合わせなどは不可能だったため出席するのは断念し、代わりに現地人のマネージャーか通訳をしていた山口に出向かせ、御礼かたがた様子を見に行かせたのではないかという仮説である。もしそうであれば、パーティの様子をあとで詳しく聞いて、それを後日出席したかのように話して聞かせることが可能だからだ。

脚色されたパーティの様子

「大阪毎日新聞」の続き(26日掲載分)を眺めてみよう。

 室内は見渡すとその美麗な事、時候は夏の 最中(さなか)でございましたが、柱と云はず天井と云はず、すつかり草花で 装飾(かざ)つてありましたが、その草花も 一種(ひとつ)として 夏季(なつ)のものは用ゐない。残らず冬から春のもの (ばか)りで、 (もっと)も是れは 温室(むろ)で咲せたものを集めたのでせうが、その 香気(かをり)はプンプンと鼻を (つんざ)くやうで、上等の香水を振かけられたかの様な心地でございました。・・・
 (やが)て舞踏が始まる。その次が 演劇(しばゐ)。この演劇を ()るには邸内に立派な舞台が出来て居りまして、 俳優(やくしゃ)は有名な大一座で、総人員が二百五十名もありましたでせう。 (もっと)演劇(しばゐ)をする者ばかりではありませんが、 囃子(はやし)に道具方などで 此多勢(このおほぜい)を連れて来たものと見えます。 ()れに場内の椅子は残らず空気椅子で、天井には電気仕掛けの 風扇(かざあふぎ)が五六個もクルクルと廻つて涼風を送るその心地よさ、夏中(なつ)とは思はれない位でした。・・・
 その後が伊太利人(いたりーじん)の曲芸で、之れは (とう)地で云ふ西洋運動と云つた様なもので、サアそれからが私一座の番でしたが、日本服で ()つてくれとの注文が出ました。 (もと)より 此方(こつち)もその 心算(つもり)準備(ようい)をして持つて往つて居りますから、女は振袖の三枚 (がさね)金絲(きんし)の縫ぐるみ、その上に 金襴(きんらん)(うちかけ)と云ふのですから暑い時分には (たま)りません。 (しか)夏服(なつもの)では立派に見えませんから我慢をして、男は申すまでもなく錦の (かみしも)、内地ではそんな馬鹿馬鹿しい 服装(なり)は出来ませんが、 ()れがまた大喝采を博しました。・・・


 室内の装飾はまだしも、250名にものぼる一座というのは一体何の事であろうか。きっと、天一が招待されたからには他にも大きな一座も招待されていたものと勝手に思い込み、ゲストのダンサーや楽団、更にはダンスの輪に加わった人の数をその一座の規模と勘違いして見てきたような描写をしたのではないだろうか。続けて、

 実にこの宴会は大したもので、後に聞きますと十萬五千(どる)も費用がかゝつたとの事でございました。


 1万8千ドルかかったとされるパーティ費用であったが、それがいつの間にか10万ドルを超えているのも大したホラである。当時の月刊スフインクス誌は10セントに過ぎないがそれを現在の300円程度のものと考えても、10万5千ドルとなれば現在価値の3億円超に当ろうというもので、一晩のパーティの費用としてはとんでもない吹っかけである。 本人が実際に参加していなかったとはいえ「フィッシュ夫人」であるべき主催者がいつの間にか「カーネギー氏」になり、更に「カーネギー未亡人」になっていく様子が明らかになってしまうと、昔の自慢話は余程注意しなければならないことが改めて確認できるのである。

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