堀田備中守が勅許を受けることに失敗して罷免されたあと、大老となって交渉を引き継いだ井伊直弼はもともと開国論者ではなくむしろ鎖国的な見解をもっていたとされる。加えて、将軍家定の継嗣問題にからむ幕府内の対立もあったことから、それまで開国論者でハリスの応接委員を務めていた輩は相次いで左遷される動きになっていた。
ところがここに突然条約の調印を促進するような事態が持ち上がった。英仏連合軍がシナを制圧し、その余威に乗じて無防備の日本に向かいつつあるという情報がもたらされたのである。狼狽する幕閣に対しハリスは「起る戦禍と不幸を回避するには危難の到来する前に最も公正にして妥当な条約の締結を完了して諸大国をもこれに倣わせた方が賢明である。その上でもしも不法な要求をする国があるなら、自分は一身をもって調停にあたりその野望を防ぐであろう」と誠意と熱情をかたむけて説き、これを保証する手紙をしたためて日本側の同意をうながした。ことここに至って、井伊直弼も遂に窮し「勅許を待たずして調印するもやむなし」の方向に転じたのである。
ついに6月19日、修好通商条約はポーハタン艦上で調印となり、翌安政6年(1859年)日本は横浜・長崎を条約港として開港することになる(注7)。こうして二百数十年に及ぶ鎖国政策に幕が引かれることになったが、このことが元で井伊直弼が安政7年3月3日に暗殺されるに至ったのはよく知られた史実である(桜田門外の変)。
その後、フランスは幕府が引き続き実権を持ち続けるとみて支援する一方、リチャードソンが殺害された生麦事件をきっかけに薩英戦争に巻き込まれたイギリスは討幕の動きを不可避と見るなど各国代表との外交的な駆け引きも活発になる中、日本は本格的な内戦と混乱の時代に突入していくことになる。こういった世情は、初期に来日した外国人にとっても、不穏な町を出歩こうとすると身の危険を覚悟せざるを得ない事態を生む。文久3年(1863年)の夏に来日し、自身の首を切り取って小脇にかかえる手品などを演じた奇術師ドクター・リン(Dr. Lynn)の紀行文を見ると「当時の横浜はリチャードソン事件の混乱がまだ収まってなかったため、ある夜街中を歩く際、片手にピストルを他方には自分の頭をかかえて歩き、通行人が怖がるようにして身の安全を確保するようにした」(The Richardsonian disturbance were not over when I was in Yokohama, and I walked through the streets one night with a pistol in one hand and my head in the other – a feat which secured me my safety in those trouble times, effectually frightening all who approached me)と当時の様子を冗談ともつかずに生々しく伝えている。
そんな渦中にあって、日本の手品師や曲独楽師は、外国領事館や横浜居留地での催しに引き続き声がかかるなど、外国人社会でもその評判が高まっていく。そしてその様子を目の当たりにしためざとい外国人は、彼等や軽業芸人で一座を組ませ、海外に連れて行って大儲けしようと思い付くのである。話を持ちかけられた芸人は、この機に一旗あげようと意を固める芸人が少なくなく、次々と世界に飛び出すことになった。そして記念すべき旅券第一号を射止めたのはあの手品師隅田川浪五郎になったのである。
ドクター・リンがプロモーション用に使った 「首なし写真」 |
第一号となった隅田川浪五郎の旅券 |
その昔、河原乞食とさげすまれた芸人ではあったが、腕を磨いた当代の手品師たちは、外交の表舞台に引っ張り出され期待通りの役割を果たすとともに、その後は渡航者の先頭に立って日本の芸の素晴らしさを世界に広めていったのである。日本の手品師や曲芸師が急速に注目される存在となった幕末期から明治初期にかけてのこの時期、彼らは最も誇り高く光輝いていたのではないだろうか。
偶然ではあるが、ハリスと手品はもう一つ面白い因縁がある。彼の墓はニューヨーク市ブルックリンのグリーンウッド墓地であるが、実はこの墓地には米国人でありながら日本人手品師として振る舞って活躍したソト・スネタロー(Soto Sunetaro)ことウェリントン・トビアス(Wellington King Tobias)も埋葬されている。
注7:艦上で日本を代表して調印に臨んだのは井上信濃守と岩瀬肥後守の両人であった。交渉役の一員でもあった井上清直(信濃守)は当初からハリスに対する応接役を担い、余興のアレンジから調印まで関わることになった。