天一は、渡米後数か月して初代内閣総理大臣(生涯4回首相になった)を勤めた伊藤博文のために催された現地歓迎会で手品を披露し揮毫も得たということになっている。それがどこで行われたのかについて、秦はニューヨークだったとし、青園は「天洋の資料ではサンフランシスコとなっているが、ニューヨークであろう」と言い、村松や丸川はシアトルとするなど諸説が入り乱れている。事実はどうだったのであろう。
幸いなことに現地で発行されていた日本語新聞がいくつか現存していた。その内容をつぶさに調べていったところシアトルの週刊日本語新聞である『日本人』紙の10月5日号にこのことが記されていた。それによれば10月2日にシアトル入りした伊藤候の歓迎会は早くから委員を選出して準備がなされ10月4日にシアトルの日本人会場で三百余名の参集を得て昼餐として行われていたことが確認できた。また、同日の夕刻には米人の名士による歓迎の宴会がレニア・グランド・ホテルで行われている。伊藤候は翌5日の夜8時の列車で陸路東行してその地を離れたが、その日の昼は林領事が領事館に一行を招待し日本料理で昼食を振る舞う予定になっているとも報じられている。
同紙の10月12日号に続報があった。「委員慰労会」というタイトルの記事が報ずるところによれば、『伊藤候歓迎会委員諸氏を慰労する為め、田中武次郎、河島義方、柴田宇之吉の諸氏発起となり、去る五日花月楼にて宴会を開きたり。席上、天一の滑稽、天勝の手踊等座興を添へ、オマケに紳士連の角力等ありて非常の賑いなりき。因みに云う、伊藤候がシアトル日本人会のために絹地に「一視同仁天涯比隣」の八字を揮毫せし、額面は此の席上に於いて披露せられたり』と記されている。時間帯は定かでないものの慰労会は歓迎会の翌日(5日)に行われ、その席に天一と天勝が呼ばれていたのである。同じ紙面に、天一と天勝の興行が10月6日と7日の両日にシアトル・シアターで行う旨の広告が掲載されていることから、一座が当地に来ていることは日本人社会にはかなり知られていたようだ。
一方、天一と天勝は、それぞれ次のような揮毫をもらったとされているが、どこで伊藤候と接点を持つことができたのであろうか。
考えられるのは5日の領事館での昼食の場である。前日の大歓迎会で形式ばった挨拶(「日本人」紙に全文有り)を強いられていた伊藤候に対し、林領事は翌日の昼食をくつろいだ形でもてなすことを考え天一らを余興として呼び出したようだ。実際、伊藤候が出発するに先立ち天一にご祝儀として20ドルを与えたことも12日の記事にあり、この場で揮毫を受けたことは間違いないだろう。そしてその場に居合わせた歓迎会委員の代表がそのまま慰労会の方にも天一を連れて行きそこでも演じることになったものと考えられる。
この領事館での出来事を天勝は「男を喜ばす手品的操縦法」(『女の世界』、大正4年5月号)の一節で次のように語っている(※)。
・・・、でハンカチを出して、之に何かお書き下さいとお願ひいたしますと、
『よし』と仰やって『春夏秋冬一手裡』と書いて下さいました。けれどもお名前が無いので、
『
このようなやりとりがあったのであればこの揮毫をもらったのは領事館の場面であることは間違いないだろう。ただ、三百人が集まった前日の日本人会で天一らが演じたかどうかは定かではない。
いずれにせよこの一連の動きで一座の名は更に知れ渡たることとなり6日7日の興行の入りにも好影響をもたらしたのではないだろうか。それまで不入り続きで一部の座員の遁走も経験していた天一一座にはこうしてようやく運が向いてくるのである。
ここまでは天一にとっては重要なキッカケになった体験談であり「ホラ」とは無縁のものである。問題は伊藤候との関連で伝えられているもう一つのエピソードの方である。
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