松山光伸

見立番付に見る明治の人気手品師

 西洋文化を急速に取り込んだ明治期は、手品界でも西洋手品と称して従来の日本手品を洋装で演ずるなど、若干演出を変えて耳目を集めることに躍起になる動きがあった。
 全世界正一、地球斎イルマン、地天斎貞一、亜細亜マンジなど、人を喰ったような芸名を名乗った手品師が続出したのもこの時期の特長で、更には鈴木春五郎の一門や養老瀧五郎一門といった和妻の名門からも萬国斎ヘイドンや養老マボロシなどが出るに及ぶなど、伝統芸が急速に色褪せていく様相となった。ちょうど歌謡曲が衰退し、歌手やタレントの芸名がカタカナが主流になっている現代と似たような現象がその当時起きていたのである。
 このような状況にあって、記憶にとどめるべきマジシャンはどういう人物だったと考えればいいのだろうか。当然のことながら時流に乗った手品師がすべて成功したわけではなく、また日本手品にこだわったものもすべてが寄席から姿を消したわけでもない。手品史に興味を持つものにとっては面白いテーマである。

 新聞や雑誌に記事が残っていれば、誰が当時話題になっていたかを知るのに好都合であるが、記事に現れるのはゴシップの類が多く、通常の演技評というのはほとんど見られない。一方、錦絵や絵ビラともなると劇場や芝居小屋で大々的に行われる興行の場合に作成されることはあっても、寄席出演ではその種のものはないのが一般的である。従って、手品師全体の人気度を測る材料が意外に少ないということになるが、実は当時の芸人の人気度がわかるものがないわけではない。

見立番付

 江戸時代後期の文化・文政期頃から始まったとされる「見立番付」というのがある。相撲番付をまねてはいるものの、必ずしも「人」だけを対象にしているものではなく、様々な形態の商売を東西に分けてランキングを試みるなど、あくまで番付表に「見立てて」人気ランキング付けしたもので、現代でいえば「**年ヒット商品番付」のようなものと言えばいいだろうか。ただ、その番付に取り上げられる対象は幅広く、名所旧跡・神社仏閣・温泉地・山川などもあるなど、おおよそ考えられるあらゆるものが、その人気や評判などをもとに番付表として作られ、庶民の間に流布していた。その中で次に紹介するのはいずれも明治20年代の芸能人の人気ランキングで、残念ながらその前後のものはないが、いわゆる寄席芸人以外の手品師も含まれているため当時の手品師の人気度を横断的に伺い知るには好個な史料になっている。

明治22年「落語家高名鏡」

明治22年「落語家高名鏡」
明治22年「落語家高名鏡」
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 中央の欄を見ると、ジャグラー操一と帰天齋正一を中心に、アサヒマンマロと萬国齋ジョン(帰天齋ジョンと称した時期もあったとされる)が並んでいる。またこれとは別に独立して設けられた技芸の欄があり、そこには、養老瀧五郎(二代目)、中村一登久、春風蝶柳齋(後の三代目柳川一蝶斎)、帰天齋正丸、林家鶴の助、ジャグラー聖一が挙げられている。注目すべきは、中央に掲げられた4人がすべて西洋手品師になっていることである。この頃までに西洋手品がそれほど人気を得ていたことの証左といえよう。


明治25年「当今落語一覧」

明治25年「当今落語一覧」
明治25年「当今落語一覧」
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 3年たったこの版でもジャグラー操一と帰天齋正一が中心にすえられ、中村一登久とアサヒマンマロが同じ中央位置に並べられている。萬国齋ジョンの替りに中村一登久が格上げになっているが、いずれも西洋手品師であることに変りはない。一方、その下段には春風蝶柳齋を中央にして春風蝶之助と帰天齋正丸が並んでいるが、養老瀧五郎の名が何故か見えなくなっている。この1,2年間興行師のような活動に注力していたことが影響しているのであろうか。


明治26年「昔話音曲技芸一覧」

明治26年「昔話音曲技芸一覧」
明治26年「昔話音曲技芸一覧」
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 この年になって松旭齋天一の名がようやく上段に現れる。名前が出る時期が遅すぎるきらいがあるが、選者の好み等で取り上げられていなかったのであろうか。いずれにせよ明治22年に名があったジャグラー操一・帰天齋正一・アサヒマンマロ・萬国齋ジョンらの西洋手品師の名が引き続き出ていることは以前と変わりない。また技芸欄をみると常連の中村一登久・春風蝶柳齋・養老滝五郎・春風蝶之助・ジャグラー聖一の他に萬国齋併吞(ヘイドン)の名も出てくる。ちなみに中村一登久は明治22年版では「奇芸」、明治25年版では「西洋手品」、そしてこの年は「日本手品」となっており、他と一線を画するほどに芸域の広い多才な人物だったことが見えてくる。


明治27年「落語音曲実地腕競」

明治27年「落語音曲実地腕競」
明治27年「落語音曲実地腕競」
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 この年は手品師以外の芸人を含め帰天齋正一が最上位に来ているのが何よりも注目されるが、講釈師でのちに日本手品を西洋に紹介した快楽亭ブラック(石井ブラック)も大看板になっていたことが確認できる。全般的に手品師があまり取り上げられていない印象があるが、春風蝶柳齋の名が中央下段に引き続き見えるほか、帰天齋唯一、春天齋柳一、橘屋喬三楼という日本手品師の名が新たに連なっているのが興味深い。ちなみに中村一登久はこの年に引退したため名が見えなくなっている。松旭齋天一の名も再び見えなくなっているが、地方回りが多く定席に出る機会が少なかったためであろうか。


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 この見立て番付で多くの結論を導くことは難しいが、少なくとも西洋手品と称して演じられたものが明治20年代にはすでに評判を得て定着していたことが確認できた。その中でも特に、帰天齋正一・ジャグラー操一・アサヒマンマロ・中村一登久は当時の代表的な奇術師として大いに受け入れられていたのである。天一は別格としても、この後、日本手品で天覧の機会を得て三代目柳川一蝶斎となった春風蝶柳齋(本名:青木治三郎)を含め、彼らは明治を代表する手品師として記憶すべき人物だったことがこの見立て番付からも裏付けられるのである。

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