松山光伸

第6回 生活費を巡ってタカセ夫人が起こした訴訟

 苦難続きのタカセの成功物語ですが、どうやら結婚して子供が生まれた直後に最大の危機が訪れていたようです。興行のためにほとんど休みなく地方を回らなければならないタカセと、親元から離れ大都会ロンドンでの新生活に期待を寄せた夫人は、それぞれ伴侶を得て希望に満ちた人生を築こうと考えていたことでしょう。ところが実際に赤子を育てはじめると期待と現実のギャップの大きさに何もかもが打ち砕かれるようになったのです。互いに悩みに耳を傾ける余裕もないまま、不満が蓄積していった事情が分かってきました。実家から遠く離れた地方出身の夫人と、一人で仕事に没頭していたタカセが、新たに子育てという難題に取り組みながら生活を回すことは互いにストレスだらけになるのは必定です。現代でも親元から離れた若い二人の結婚にはさまざまな困難が付きまとうわけですから、100年前ともなるとなおのことでしょう。

 このことはファニー(タカセ夫人)が夫君を相手に訴訟を起こしていたことから明らかになりました。以下は、その裁判の傍聴記ですが、なんとThe Lancashire Daily Postというローカル誌に掲載されていたのです。ゴシップ記事の類ですが、タカセの当時の収入や苦しい生活ぶりが手に取るように理解できる貴重な資料でもあるため、後段で詳しく分析を加えてみようと思います。

 まずは、記事の全文(翻訳)を紹介します。表題は「Accringtonで語られた養育放棄の話(Story of Desertion told at Accrington)です。

Accringtonで語られた養育放棄の話
― ミュージックホールアーティストとその収入 ―

 Accringtonで、今日、ロンドンのBrixtonのMorant Streetに住むマジシャンでミュージックホールに出演する日本人アーティストのジョージ・キヨシ・タカセが、AccringtonのPortland Streetにいる妻のファニー・タカセから養育放棄を受けたとして召喚されました。 F. Rowland氏が原告を代表し、R. Kidd Whitaker氏が弁護に立ちました。

 Rowland氏によれば、二人は1913年12月17日にHaslingdenの登記所に結婚届を出しました。被告は、週に約20ポンドを稼ぐイリュージョニストで、二人の間には一人の子がいます。当初、約12か月間、妻は両親と同居し、被告は各地での出演契約に従事していました。その間、彼女は自分の家を見つけてくれるよう彼に圧力をかけ続けていました。そして、今年の1月15日頃、彼女はロンドンに行き、彼は彼女と一緒に2週間ほど過ごせる宿泊場所を見つけ、その後Brixtonでアパートを借りました。最初の週、彼は彼女に家計費として30シリングを渡し、次の週は12シリング、その後、彼がウェールズのTredegarでの契約出演で6週間家を空けることになった間にも、同じように渡していました。

 彼が、彼女と赤ちゃんのために残した額は、週わずか10シリングでした。そこから牛乳配達人に5シリングを払い、石炭2袋の代金も払うなどしたため、自分と子供のための食べ物のためには1シリングしか残りませんでした。そこでタカセ夫人は夫にお金がないという電報を送り、火曜日には生きるためのお金がないとしたためました。土曜日まで返事はありませんでした。返事は彼の友人に宛てられていて、友人がそれを彼女に届けるとともに、友人から彼女に8シリングが与えられました。日曜日に彼女の夫は戻ってきて、8シリングの説明を求めました。その後、彼は翌週の食料を買いだめ、次の火曜日になって、夫は彼女に、これ以上のことはできないと言い、自分でも稼いで生活していけるのではないかと告げました。彼女は以前の宿に行って、母親に電報を打ちました。母親はソブリン金貨(訳者注:1ポンド金貨)を彼女に送りましたが、この金貨はタカセから別途手紙を受け取っていた父親が妻に託して送らせたものでした(訳者注:文面の意味は曖昧で、このソブリン金貨の出どころは、父親自身が自分の貯えの中から出したものとも解釈できますが、タカセが父親に送ったものを娘に転送したとも解釈できます)。彼女はAccringtonに行き、それからロンドンに戻り、その後、夫が契約で出演していたBerkenheadに行きました。Rowland氏は、タカセ夫人がアパートにいたとき、夫に宛てられた手紙を見つけたと言いました。彼(Rowland氏)はそれを読むことを提案しました。

 Whitaker氏は、この段階ではまだ読まないようにと願い出ました。彼は、二人が協力し合えるかもしれないと考えたのです。彼らは若く、どちらも良い性格の持ち主でした。

The Lancashire Daily Post, 1915年4月28日水曜日, 2面

 両人は弁護人と共に退席しました。数分後、姿を現し、和解は成立しなかったという通知が裁判官にもたらされました。

 Rowland氏は前述の手紙を読みました。

 原告は、Rowland氏の冒頭陳述を裏付ける証拠を提出しました。

  Whitaker氏が別の角度からの陳述をしました。彼女は結婚する前は洗濯屋の従業員であり、週に1ポンド稼いでいたと述べました。彼らは時々喧嘩をしていました。彼女は、夫が家計費のために定まった額を提供し損なっていたこと以外には、深刻な不満を持っていなかったことを認めました。

 Whitaker氏: 仮に今、彼が毎週定期的にいくらかを出す用意があると言ったとしたら、あなたの難題はクリアされますか?

 原告:どうしたらいいかわかりません。

 Rowland氏は、男性が週ごとに相応の金額を支払うと誓う覚悟がない限り、また男性がわが国の習慣を理解し、妻を養うことになることを知るまで、解決の見込みはないと述べました。この場合、女性には十分な手当をし、夫が長期間にわたって支払いを続けるかどうかを試させるのが最善であり、その期間が過ぎれば、女性は夫のところに行って、要求を取り下げることになるだろうというのが、彼(Rowland)の見解でした。

 Whitaker氏は、問題はどのくらいが適当な金額なのかだ、と述べました。

 Rowland氏は、被告の給与は週20ポンドだと述べていましたが、それは歪曲した理解であって、彼の出演契約は常にあるわけではなく、彼の給料は週9ポンドに過ぎず、その中から2人の助手への支払いと旅費を賄わねばならないのです、と加えました。

 和解点が見つからないまま、一旦休廷になりました。

Whitaker氏は陳述を再開しました。原告は、Berkenheadにいた夫のところに行ったとき、彼はAccringtonに帰るように彼女に言ったと述べました。彼は、彼女が洗練されていないので、一緒に歩くことが恥ずかしいと言ったため、彼女は彼の言葉を受け入れました。彼女は彼にとってまともなことは何もできませんでした。彼女の主張によれば、夫は正当な理由もなく、自分が汚いとか、贅沢をしているとか、文句を言っていました。彼女は贅沢できるようなお金を手に入れることはありませんでした。

 Rowland氏によれば、彼女は夫が賃金を払ってくれないので夫の元を去りました。彼女がBerkenheadに彼を残して以来、彼は今朝まで彼女と連絡を取ることはありませんでした。

 被告は証言台に立って、裁判官に、「週に12ポンド、時には9ポンドを受け取りましたが、その中からエージェントの料金を支払い、更に2人の助手に5ポンドを支払わなければならなかった」と述べました。彼の次の出演契約はGalashiels、次にGlasgowとEdinburghに予定が入っていて、5月から8月まではまだ契約が入っていません。出演契約は冬場の方が得やすかったとのこと。戦争が始まって以来、芸能人たちは互助の仕組みを取り入れていて、彼の場合、時には1ポンドの内、9シリング、或いは13シリングを受け取っていました。彼は自分で食料を買って自炊しなければならなかったと説明しました。彼は妻にAccringtonに戻るようには言ってはおらず、ロンドンのアパートに戻るだろうと予想していました。妻はAccringtonではなくロンドンに行くべきだと思っていたので、彼は妻と連絡を取りませんでした。

 Rowlandへの返答の中で、被告は、妻に服を購入していなかったことを認めました。

   法定は、週に1ポンドを渡す別居命令を与えました。


 以上が記事の全文で、概要はこれだけで十分理解が可能ですが、当時の英国の貨幣価値について補足を加えながら、タカセ夫妻の経済状況を確認してみたいと思います。

 当時の1ポンドは20シリング、1シリングは12ペンスでした。その現在価値を理解するために、1915年当時の日刊新聞の価格と、マジックショーの殿堂とされたSt. George’s Hallの入場料を確認しておきます。

 高級紙として知られたThe Times紙の一部売り価格は1ペンス。ロンドンのSt. George’s Hallの入場料は一般席で1シリング、最上席で5シリングでした。日本経済新聞の一部売りが現在180円なので、1ペンスの現在価格を180円と想定すると、1シリングは2,160円、1ポンドは43,200円ですから、St. George’s Hallの一般席は2,160円、最上席は10,800円となります。イメージとしてはそれほどおかしくないので、これを基準に考えてみます。

 さてタカセの言によれば、劇場街が実質的に閉まっていた夏場は無収入で、他の期間の出演契約金は週9ポンドが一般的だったとのこと(訳者注:冷房機器がなかった当時の夏場の劇場は蒸し風呂状態になるため、劇場は閉ざされていたと言われています)。その内5ポンドは二人の助手への支払いに当てられたので、残るは4ポンド。エージェントへの取り分を仮に15%(1.35ポンド)としてそれを引くと、2.65ポンド(114,500円に相当)がタカセの手元に残ることになります。この額は助手一人への支払い額2.5ポンドとあまり変わりません。そして仕事がない時期を含め、裁定通りに仮に毎週1ポンドをファニー夫人に送るとなると、残る可処分所得は週約1.65ポンド。収入のない夏場に生活費は備えなければならないので、実質的には週1.2ポンドが可処分所得だったのではないでしょうか。

 タカセとしては、出し物を変えるたびに衣装や道具等を整え、興行地までの往復交通費や宿泊は自腹で、道具の修理や保管も考えなければいけません。更にクリーニング代をはじめとする日常的な出費があるので、食事を自炊したとしても、夫人への仕送り額は最低限にせざるを得なかったという事情が見えてきました。

 また、以上の試算には税金の支払いは考慮していないので、実際には更に状況は厳しかったのではないかと考えられます。その一方で、新しい出し物や演出を常に考え、練習に励まねばならないのがマジシャンという稼業なのです。

 ファニーは華やかなロンドンでの新生活を期待していたのかも知れませんが、現実は厳しい世界が待っていました。実際、第一次世界大戦は激しさを増し、イギリス沿岸にドイツ機が来襲し、さらに飛行船までやってくるようになって事態は緊迫の度を増していたのです。

 訴訟の裁定はこの日の内に出されました。タカセは毎週1ポンド(現在価値で43,200円相当)の仕送りをし、夫人は実家に戻って子供を育てることになったのです。夫人が結婚前に週1ポンドの収入があったこともこの額を決める際に考慮されたのかも知れません。ロンドンにはエージェントとの打合せで度々戻る必要があったためファニーとフラットで過ごす拠点があれば何かと好都合だったのですが、現実にはしばらくの間妻子と離れ離れの生活が続くことになりました。

 二人の間には養育費を巡る争いはあったものの、それ以外に大きな不満はなかったと証言しています。判決の趣旨としては、何年か辛抱すれば、子供も手がかからなくなり、タカセの収入も徐々に増え、遠からず家族一緒に住めるだろう、という大岡裁きだったように思えます。この結果、タカセの収支は更に厳しくなりました。助手を一人に減らしたり、芸域を広げたりと、一層の工夫と努力を重ねることになったものと思われます。

 実際タカセの後年は映画俳優としての活動が主体になり、ロンドン生活が増えたのですが、前述したように、ファニー夫人は子供と実家に戻ってから結核に罹患し、2年と経たずに亡くなりました。

 海外での活躍を夢見て、現地の女性と結婚し子供をもうけたマジシャンや芸人にとっては、意思疎通の問題に加え、生活費や子育て負担の増加、持ち芸の更なるレベルアップへの必要性など、多くのプレッシャーに押しつぶされて失意の人生を終えた人も確認できます。タカセの場合は妻を早くに亡くすという不幸に見舞われましたが、努力を重ねて名を成しました。故郷に一度は戻りたいとの思いがあったかも知れませんがそれは結局果たせませんでした。

謝辞: 傍聴記事の存在と、その解釈に関するアドバイスを、歴史研究仲間のディック・ウェインドリング氏(Dick Weindling)からいただきました。ここに記して御礼申し上げます。

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