松山光伸

海外渡航第一号となった日本人手品師の体験
第2回

「速記彙報」にあった浪五郎の思い出話

 登場人物が一通り出揃ったので本題に戻ることにします。浪五郎の話は『速記彙報』に見つかりました。明治21年に発刊された雑誌です。当初は不定期だったものがまもなく月刊になったものですが、その名の通り有名人に取材した聞書き(インタビュー記事)や講演の内容などを活字にして紹介したものです。この雑誌ができた背景としては、明治14年に「明治23年をもって帝国議会が開設される旨」の詔勅が発表され、議会議事録記録の必要性から速記がもてはやされるようになっていたのです。

「速記彙報」の表紙


 その第49冊目となる明治26年2月15日号に浪五郎の話の連載が始まりました。題して「中川浪五郎翁の談話」。5回にわたる連載です。タイトルでは中川姓になっていますが、もともと隅田川という名は芸人としての屋号に過ぎず、明治8年に苗字をつけることが義務化されたことにともない中川姓を名乗るようになりました。ところが内容を読み進んでいくと矛盾が随所に見つかりました。インタビューに応じたのは渡航してから26年の歳月を経てからのことでした。諸国をめぐって帰国し、ようやく落ち着いたと思いきや、浪五郎は数年後には再度外国に旅立っています。そういった記憶が入り混じってしまったのか間違いが散見されます。例えば、日本を出港した大事な日付に誤りがありますが、中には速記者が文字起こしする際に誤解釈したものもありそうです。また、彼の言葉を紹介しただけではこの時の一座に馴染みのない方にとっては意味不明でしかない話が多々出てきます。そこで注釈を添えながら重要な部分を読み進むことにします。きっと浪五郎の不安感と期待感が入り混じった心情が伝わってくるはずです。以下、文章は本人の言葉をそのままに、現代文字や仮名文字に置き換えて読みやすくしています。

渡航話のキッカケ

その時分神田に居ましてね。大勢私の所にいましたが、休んでいました、休んでいますと或る日のこと、表から「浪五郎兄ぃは在宅か」と言ってきた人があった。それは今の源水の親で初手の源水だから「アー在宅だ、お上り」と言って上げて、と見ると源水は何だか石を包んだ様なものをぶら下げてきたな、重箱でも包んできたのかそれとも何だかサツパリ分らなかった。源水は御存じの通う大道で入歯をしながら独楽を回わしたり,何かしている人だから是れぁ入歯に使う石じゃぁないかと思った。所が源水が言うに「今日はお前に話してぃ用があって来たんだがここの家では話せないこったから外へ出てくんねい。暑いから明石屋から酒肴ぁ船へ入れさせて海へ行って飲みながら話そう」というので、それから明石屋という船宿へ行って酒肴を入れさせて源水と一緒に船に乗った。「上手へ船を持ってってくれ」と言って出かけました。両国を越すと源水は船頭を呼んで懐から金を一両出して包んで「これぁ少ないけれどもお前に酒代にやるから根に任せて船を漕いでくれ」と言った。ヒョンなことを言うなと思っていたがそのうちに「船を川長へ着けろ」っと言って川長へ寄って川長でまた酒肴を入れさせて今度はまた「新地(佃の後ろ)の方へ行ってくれ」と言った。これはどうもおかしいと思った。


 源水が浪五郎を「兄ぃ」と呼びかけていますが浪五郎はこのとき数え年で37歳、源水の年は定かでないが多分35歳前後でした。近年になって見つかった写真ではいずれも高齢に見えますが、実は30歳代だったのです。

Harvard Theatre Collection 所蔵

そうすると源水は「浪五郎兄ぃ、他の事ぢゃないが実は脇で話せないからここまでお前を連れて来たんだが異国へ行く口があるがお前どうだ」「そうか何の話かと思ったらその事か、それなら私も思い当たることがある。二三年あと横浜から松の小僧を貸してくれと言って来たから貸してやったらこの子を一年百両で貸さないかと言ったことがある。百両ばかりで大事な子を貸す奴があるものか、この小僧だって年に百両や百五十両はどこに居ても稼がぁと言ってそれを断った。そのときカンカラ大鼓をたたく浅が松と一緒に行ったが・・・と言うと源水が「おれのもやっぱり浅の口だ、もう一と口売ったからそのあとがこっちへ来たのだ」「それなら幾人欲しいのだ」と言ったら「おれはもう売り込んで仕舞ったんだから弟の菊をやろう、それから手品の組と角兵衛の組と女の踊が一組、それだけ急にこしらえて手見せをしてくれまいかと言うのだがドウだぇ」「私はよろしい」と請け負った。「源水さん、それはそうとお前がそこに持ってるのは何だ。金じゃぁねいか」と言った。そうすると源水が「んー、金だ」と言いました。「どうだぇ盆前困るんだが五十両ばかり貸さねいか」と言いましたら「そんなら貸してやろう」と言った。それから借りて懐へ。胴巻へ入れて懐へ入れた。源水の言うには「どうだぇ、時に明日手見せだぜ、明日までに荷が横浜へ回ろうか」「どうかしよう」。


 「松の小僧」というのは浪五郎の息子の松五郎のことです。親子で初渡航し、帰国後数年たってから再度浪五郎らと一緒に海外に雄飛し、最終的にはドイツ人の女性を妻にして異国で生涯を送りました。この松太郎は浪五郎が20歳の時の子で、渡航時は17歳でした(いずれも数え年)。「二三年あと横浜から松の小僧を貸してくれと言って来たから貸してやったら・・」という表現が出てきますが、これは速記者の誤りで「二三年前横浜から・・」でした。前述したように1864年の夏以来、横浜ではジョン R. ブラックが居留民の西洋人の楽しみのために「Evenings At Home」という催しを自宅で頻繁に開いていて、そこでアサキチや浪五郎一家の芸を何度となく演じてもらっていたのです。「カンカラ大鼓をたたく浅」というのはこのアサキチのことで、松五郎と一緒に出向いて演じたのは1964年(元治元年)9月13日のことでした(広告は9月10日のもの。当時の松五郎は15歳で小浪 – Konami - と称していました)。

The Japan Heraldの広告(一部分、1864年9月10日)

 「浅の口」とあるのは浅之助(通称アサキチ)の口利きという意味で、源水が「おれのもやっぱり浅の口だ、もう一と口売ったからそのあとがこっちへ来たのだ」というのは、「すでに一組の売り込みは済んでいるが追加でもう一組求められている」という意味です。前者の組には一早く浅之助や源水自身が手を挙げ西回りの一座として出発することになったのですが、並行して出立する残りの一座について源水が浪五郎に相談しているのがこの場面です。源水の言う「弟の菊」というのは同じく独楽回しをする菊次郎のことで、角兵衛というのは軽業芸人のことですが、いずれにせよ翌日には横浜で手見せを求められているため間際になって源水が浪五郎に話を持ってきたのです。

それから帰ってその晩、源水の家へソーッと人を集めて色々と相談をすると「思いきって行こう」と言う者もあるし「怖いからよそうか」という者もあった。足芸の太夫で濱碇定吉という者があったがそれにも「日が暮れたら話があるから来い」と言ってやった。それも来て・・・、色々話があって酒が始まった。鬼を欺く様な男でも首を傾げた。「異国というのはどんな国だろう、行ったらどうされるだろう」と言う様なことを言って居る者があった。その時私がそう言った。「私だって、どんな国だか知らない。知らないが先づ積って見れば異国の人は金魚と言うものを買ってそれをビードロの中に入れてポウフラだとか麩だとか食わせるぢゃぁないか。そういうものを見て楽しむと云う国で見りゃぁ向うで買おうと言い、こっちで売ろうと言った所で、まさか買った人間の生肝を取りもすまい。蝦夷軍記などを読んで見ると随分難行苦行をした話も書いてあるからその割をすると何でもあるまい。買われて行ったってマンザラひどい目にも遇うまい。こっちに居たって木戸先で喧嘩でも始まりゃぁいつドウされるか知れねいじゃぁねいか。そうあきらめたら行けねいこともあるめい」と言った。「そう言えばお前の言う通うだ。それじゃぁ行こう」と言う話になった。「行こうは行こうだが給金は幾らとしたら宜かろう、何しろ今夜考へて明日返事をしなければならないが幾らにしたもんだろう」などと言って先づその晩は済んでしまったが、今の様に蒸気というものは無しするからその晩大橋から荷を積込んだ。曲独楽では源水、菊次郎、親子三人、足芸で濱碇定吉の連中が九人、それから手品で私 ― 隅田川浪五郎の組が四人で荷を・・・。


 「蒸気というものは無しするからその晩大橋から荷を積込んだ」というのは「新橋と横浜の間を走る蒸気機関車がまだなかった時代だったから」という意味で、手見せに必要な道具は急遽船で運んだと説明しています。すでに行くことを決めていた源水もこの時点ではまだ手見せをしていなかったようです。

行った先はメリケンのコンシェルで、唐人の名前はイロワル・ベンクスと言いました。その人が金主で、シーツという人、それから曲馬師のウルスレー、それだけ居て、そこで手見せをやりました。やった所が向うの気に入って「雇うと決めたから直ぐと行く支度をしてくれ」と言った。行けと言ったっても政府で ―その時分はまだ政府とは言わない御奉行だ― 「南北の奉行でやりますまい」と言った。今とは違ってその時分は異国へ行くなんて言おうもんなら直き首を斬られるという時分だから「とてもやってくれますまい」と言った。ところが「ナーニ、行けるようにしてやるよ、兎も角も急に願出してくれろ、時に給金は幾らだね」と言われた。


 行った先は当時横浜にあったアメリカ領事館で、手見せの相手はエドワード・バンクス(イロワル・ベンクス)らでした。バンクスは金主となっていますが実際には通訳の役割を担った人物でアメリカ領事館では警備官をしていました。ちなみに「唐人」という言葉は「外国人」と同義であり、普通の町民は中国人・朝鮮人・西洋人を問わず誰でも唐人と言って気にもとめていなかったことがこの言葉からもわかります。一緒にいたのは日本人の一座を連れ出すことに熱心だったリチャード・リズリー・カーライル(曲馬師のウルスレー)で実質的には彼がリーダーになってサーカスの世界で再び活躍できる機会を伺っていたのです。ただ日本語が不得手だったためバンクスに芸人集めを依頼したものとされています。もう一人のシーツというのはウィリアム F. シーツという人物で、詳しい素性は不明なものの会計担当として金銭のマネージメントを担当したとされています。浪五郎らが「奉行が出国を許さないはず」と心配したにもかかわらず彼らが意に介さなかったのは領事だったジョージ S.フィッシャーが交渉を後押ししてくれたからだと考えられます。

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