松山光伸

「オリジナリティ」と「権利」 第5回

2-3.実演権、初演権の問題

 これは、米国の「インサイド・マジック」紙(2016年8月まで25年間続いた月刊の「MAGIC」誌の前身で、当時の発行部数月2千部)の90年9月から12月にかけて大きな議論となりました。 きっかけはブルース・サーボン氏が「Ultra Cervon」というタイトルの本を発刊するに際し、その本の冒頭に、

"All rights reserved, including performance rights for national or syndicated television, video tape, lectures and first person performance rights over conflicting acts."


という警告を載せたことに発します。要するに、この本に解説したマジックは、「広域のテレビ放送出演」「ビデオ収録」「レクチャーでの講習」に使うことを禁ずるのみならず、それ以外の場合でも「初演する権利」が保護されている、ということを唱ったものです。

 いままで述べてきたように、奇術の場合、いわゆる現在規定されている「著作権」という概念では、カバーしきれない様々な問題があり、創作者が保護されていない現実に対して「一石を投じた」結果になりました。これに対して奇術界をリードする第一線の色々な意見が出され論議を呼びましたので、そのエッセンスを記してみましょう。

Ultra Cervonの警告文に対して大論争が起きたInside Magic紙

リチャード・カウフマン氏

  • 友知人に見せるような場合は当然問題になるものではないが、プロとして対価を得て、パーティ、レストラン、トレードショーで演技をするような場合でもサーボン氏の了解を得ずに演ずることができる。
    レクチャーで演じたり、ビデオに収録して自分のものであるように振舞わない限り、実質的に制約される恐れがあるのはTVに出る時だけだ。
  • 「マジックの創作」との関連では法律上「実演権(performance rights)」が明確に定められていないため、いざマジシャンがTV出演しようとすると、すでに文章に書かれている奇術の中からお気に入りのネタを選んで許可なく演ずる、といった悪しき伝統が根付いているのが実態だ。
  • 自分の本に自分の都合の良い規程を書き記すのはサーボン氏の自由かも知れないが、そういったものには法的な意味はない。
    例えば「あなたは私の奴隷になる」ということを相互にサインしたとしても、法的にそれに拘束されることにはならない。
    なぜなら法律上奴隷制度はとうの昔に禁じられており、私は訴えられれば敗訴する運命にある。
  • 私が店で楽譜を購入すればそれを元に友知人の前で演奏出来るわけであるが、どの演目に対しても実演権を手に入れたことにはならない。こういったものは別途ライセンスが必要で(一般的に高額)、通常は創作者によって厳密にコントロールできるようになっている。例えば「ザ・トゥナイト・ショー」の冒頭で、バンドがジョニー・カーソン氏の登場にあわせ演奏すると、その都度その作曲者であるポール・アンカ氏にロイヤリティ料が入る仕掛になっているが、マイケル・アマー氏がこの番組で演じたデレック・ディングル氏考案の「ロールオーバー・エーセス」については、氏はディングル氏に対し許可を得るなり対価を払うなりしているのだろうか。否である。これはやはり辻褄の合わない話ではないだろうか。
  • 従って、マジックの本、解説書、舞台道具の図解集、といったものを買った場合でも、そこに記されているマジックを「演ずる権利」までは買ったことにはならないというのが私の考えである。
  • ちょうど今、デイビッド・カッパーフィールド氏はジェイ・サンキー氏考案の「エアータイト」を巡業公演の中で演じているが、これはマイケル・ウェバー氏が指導しており、サンキー氏自身はこのことを知らされていない。サンキー氏からの許可なく、また対価も払わずに、一人ウェバー氏が対価を受けているのである。クレジットタイトルに名を連ねるのもウェバー氏である。
    https://youtu.be/93jA9xtTZTs

マイケル・ウェバー氏

  • カウフマン氏の勝手な判断や素人的な法解釈よりも前に、"U.S. Code Title 17"に基づいた議論が必要である。これが米国における著作権を規定しているからだ。国際的にはベルヌ協定が別途設けられている。なお、著作権を巡る最近の訴訟では、特に権利留保を主張(明示)していない場合、それを是認していると解釈している傾向がある。
  • 事実を曲げて書いている。どうして私かカッパーフィールド氏のどちらかに事前確認しないまま推量するのか。正規のルールにのっとって進めているにもかかわらず勝手な理解で「こうあるべき」として、他人を悪者扱いするのは許されない。
  • 私がデイビッドの注意をエアータイトに向けさせたのは数年前のことであるが、サンキー氏の三つの方法がいずれもライブでの上演やテレビ放映には不都合だったので、デイビッドから他のハンドリングが考えられないかという依頼を受けていた。サンキー氏のところに行ってないのは氏の三つの方法を使わないからであり、私自身このコンサルテーションに対しては対価を得ていない。また、番組の終わりに私の名がクレジットされるのは全般的なかかわりに対して行われるものであって、その内の一部がエアタイトに対するものである。カウフマンからの指摘の如何にかかわらず、サンキー氏の名はエンドクレジットに出る予定になっており、その結果、カウフマンの言葉の定義を借りれば、サンキー氏は対価を得ることになる。
  • ところで、サンキー氏は既に対価を得ているのだろうか。イエスである。サンキー・パンキーという本を発行した時点で、リチャード(カウフマン)が払っているはずである。「エアタイト」がリチャード・アルマナック誌に最初に掲載された際も、ジェイ(サンキー)氏は補償を得ているはずであるし、マジック・シンポジウム・ビデオにそのやり方を収録した時も支払いを受けている。更に各地でのライブ・レクチャーでもペイを受けているといっていいだろう。

ダーウィン・オーティース氏

  • リチャードが引用した奴隷契約というのはここでの例としては妥当なものではない。法律上、譲渡できない基本的権利というのが個々人に保証されているため、奴隷契約の執行は不可能であるが、カードマジックは譲渡性を問われることはないため、サーボン氏との間で個別に「氏の考えた奇術を商業的には実演しない」という契約を取り交わすことは可能である。問題なのは今回のような場合、サーボン氏の本を買うことで、その種の契約状態に入ったと考えるべきかどうかという点である。ほとんどの人はこの本を買うまでそのような契約条項があることなど知らないのだから、このような解釈は無理がある。
  • 奇術の本を出版した時、何が保護の対象となるのか、カウフマン氏の意見がはっきり見えない。現象(effect)のことを言っているのだろうか。およそ奇術の本で全く新しい「現象」を1つでも解説しているものなど、ほとんどないことを多くの人が知っている。
  • では、一連のハンドリング(the sequence of moves)のことを言っているのだろうか。この場合も、カードマジックには非常に多くの技法があるため、同じような現象をやり方を少し変えて演ずることは比較的簡単である。
  • 奇術の本の価値を決めるのは、ちょっとした改案、バリエーション、組合せの巧みさ、演出上の工夫であり、言葉を変えて言えば、著者のアイデア自体にある。演劇の場合は一連の特定のセリフで成り立っているがため権利保護することは可能で、歌(歌詞、曲)の場合も同じように一連の言葉なり音符なりで構成されているため、著作権という概念で保護することが出来る。ところがアイデアというのは、著作権、商標権、特許権、いずれに於いても保護できないものである。
  • カウフマン氏が例示したもので、アイデアに財産権を適用しようとするのは非現実的である(特許の法解釈では何年も前に否定された考えである)。カウフマン氏はアマー氏がディングル氏の許可を得ないでロールオーバー・エーセスを演じたことを問題にしているが、このロールオーバー・エーセス自体、ロン・フェリス氏が創案したエースの出現法を採り入れたものになっている。ディングル氏自身は「ディック・キャベット・ショー」でこのロールオーバー・エーセスを演じた際に、フェリス氏から許可を得たわけではないし、ライセンス料を払ったわけでもない。アマー氏の場合、ディングル氏とフェリス氏の双方に対価を払わないといけないと言うのだろうか。
    https://youtu.be/RqYdfqda5LY
    (ロールオーバー・エーセスは5:40頃からです)

ボブ・ファーマー氏

  • 私はカウフマン氏の考えを支持する。すなわち創案者はその努力に報いられるべきである。更に加えて「創案者はその奇術を演ずる人や、演ずる場所、場面を選べるようにすべき」と考える。これらは作曲家、振付師、脚本家、といった他の実演型芸術の創案者に与えられている一般的な権利である。マジックだけが例外という根拠はどこにもない。
  • ダーウィン・オーティース氏は「アイデアに財産権を適用しようとするのは非現実的」 としているが、確かにどんな場合でも本当の創案者は誰で、どこが新しくなった部分なのか、といった別の問題が残る。ただ、これは知的財産権のすべての領域で生じて(そして最終的には確定する)いるものである。従ってこれらは創案者に対する補償とか権利の自由な行使を否定する材料にはならない。
  • 問題なのは、マジックの場合、法的に未整備なことと、経済的にも大きなものとして認識されていないことにある。法はあっても機能するのにはほど遠く、音楽産業ほどに金が動くようであれば法は整備されていくことになるのだが。
  • カウフマン氏の法律に関する見解は全く正しい(これは私が教えたものである)。私は大学で著作権の修士号をとり、その後11年間著作権とエンターテインメント法の仕事に従事していたためいくつかの事例にも通じている。
  • ウェーバー氏のいう「権利を主張していない場合、それを是認していると解釈できる」というのは、通常覚え書きのような書面を付けてライセンスを与えたり、著作権を譲渡したりする場合に適用されるものであって、今回のように創案者が読者にそういうものを与えていないケースには適用されない。
  • ウェーバー氏は「奇術を本で解説するということは『演じてもいい』という暗黙のライセンスを与えていることになる」ということを言いたいのかも知れないが、それは法的には無理である(もしそういう解釈をOKとしたら音楽出版など、購入した誰もが自由に公演できることになってしまう)。
  • ダーウィン・オーティース氏が結論づけた「マジックの本は『アイデア』を記述しているのであるから保護する法律がない」というのは誤りである。「アイデアというのが著作権(copyright)の対象でない」というのは事実であるが、そのアイデアの表現方法(the expression of these ideas)が、著作権法で規定する特定の枠に入る場合には権利保護が可能である。歌を唱ったり、役者が演じたりするような場合が、この対象になるわけであるが、それと同じようなことである。即ち、創案者はその実演に関し条件を付けたり、対価を要求できると共に、権利を行使するために受けた損害への訴訟を起こしたり、実演差し止め命令を出すことが出来る。
  • 今のところ訴訟が多いわけではないが、何時か、何処かで、誰かが、他人の奇術を了解なしに、あるいは対価を払わずして使ってしまうことが起きる。多額の金がからみ創案者は訴訟を起こす。そして勝つ。事態は変わり、マジックがどう創作され、どう対価を受けるか、というすべての面で変化が生じるだろう。

ギャリー・ウェレット氏

  • 「オリガミ・ボックス」を創案(発明)したジム・ステインメーヤー氏の場合は、売った方がお金になると判断しそうしている。ただ悲しむべきことにその発明が優れているほど盗用の憂き目にあう。氏の嘆きは無理からぬところである。ただしこのケースはオリガミ・ボックスの作り方を解説している本を売ったわけではないという点が異なる。
    https://youtu.be/-oB988DB8gk
  • 「マジックの本は、音楽の譜面と似た性質のものである」というのは誤りである。また「公けの場で演ずるには、道義的にみて別途ロイヤリティのような対価を更に支払うべき」というのも誤りである。法律というのは前例や世の中の慣習を基に作られている。マジックの本の圧倒的な伝統から言えば、明らかに「ハウツー本("How To" Book)」と同じカテゴリーに入る。
  • "How To" Book を書いた著者が「やり方が分かったからといっても、やっていいことにはならない」と主張したら、ばかげた話である。もしそういうことなら、本の表紙や広告文面にその旨をデカデカと書いておく必要がある。

ブルース・サーボン氏

沸騰する議論の締めくくりとして、問題の発端となった氏が今回の主張を打ち出した背景を以下のように説明しています。

  • レクチャーについては、創案者が自らがレクチャーしたくなった場合に困ったことになる、ということである。いままではレクチャーといえば、自分の作品を解説するのが一般的だったが、ここ10年位他人のアイデアも含めたレクチャーが随分と目につくようになった(中にはヒドイ演技もある)。創案者には自分の作品を自分自身でレクチャー出来るよう選択肢を残しておくことが必要と思う。
  • 演技についても、もし同じ場で2人が実演することになった場合、創案者の方が優先的にできるようにするのが必要だろう。
  • 今回強調したかったことは、ビデオや全米放映のTVで氏の作品を演ずる場合、本人に許可を求めてもらいたいということである。道義をわきまえた人ならこういったことは当然のことと受け止めてもらえるし、ほとんどの場合はOKということになるだろう。中にはOKを出せないこともありうるが、それは創案者自身がTVで演ずることを想定していると考えてもらえればいい。
  • カッパーフィールド氏が他の創案者のマジックをTVスペシャルでやるとなれば、その創案者が一生かかって見せる相手よりも、ずっと多くの人にその奇術を見せることになる。もしそういうことになれば、以後創案者が見せる度に、「それは、デビッド・カッパーフィールドが演ってたやつだ」と言われることになり、盗用者の烙印を押されかねず、自分の作品であっても演技が出来なくなってしまう。ただ、創案者によっては、むしろカッパーフィールドのようなスターに使ってもらうことに興味を持つ場合がある。
  • 私の場合はプロであり愛好家とは立場がかなり異なる。私の方法(ideas and presenta tions)は私自身の手で売るなり、レクチャーで使うなり、ショーの中で演じたりして生計としての稼ぎにつながるべきものである。
  • "Ultra Cervon"の本の中で、あの "All right reserved ..." を記した理由を述べておきたい。実はあの本の中にある3つのものについて、他人の手で本に書かれる予定があり、私としても書かなければならない状況にあった。生計の一助となる作品を公に出版せざるを得なかったということであるが、後悔はしていない。ただ、奇術界の人と作品を分かちつつも、プロとして作品を演じ続けることが出来るよう権利を留保しようとしたものである。
創作者の権利を主張して物議となったUltra Cervon(1990年刊)

 以上が主な経緯ですが、この中ではいろいろな他の事例も話題に取り上げられ、正に白熱した論戦が繰り広げられました。
 一見すると、創作者/演技者/本の購入者等がそれぞれの立場を主張しているだけのように見えますが、登場人物はいずれも第一線、第一級のクリエーターで、且つパフォーマーでもあるため、密接に利害が絡み合っているにもかかわらず、バランスのとれた、そして核心をつく論議が展開されています。
 ほぼ主要な論点をが出尽くしたので、そろそろまとめに入ろうと思います。

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