松山光伸

欧米巡業で松旭斎天一一座が演じた小奇術

 天一一座が明治34年から38年にかけてアメリカと欧州各国に雄飛し、大いに日本人手品師として気を吐いたのは歴史に詳しくないマジック愛好家にもよく知られたところです。ただ、その行く先々で何を演じていたのか確認しようと現地の新聞記事などを仔細に見ても「水芸」と「サムタイ」を報じているばかりで一向に演目の全体像が見えてきません。これは開国初期に海外に出た隅田川浪五郎やアサキチ(浅吉)についても言えることで、彼らは「バタフライ・トリック」ばかりが注目されていたようです。
 当然のことながら、彼らはそれ以外の演目も準備していました。ただそれらは新聞記者や一般客の記憶に残るほどユニークなものではなかったのです。逆に言えば、当時の西洋の観客にとっては特に「バタフライ」「水芸」「サムタイ」の3つが日本の手品を強く印象付ける東洋の香り豊かな演目だったのでしょう。


ネイト・ライプジグ

 ところが、水芸やサムタイ以外の天一一座の演技について記していたマジシャンがいました。やはり同業者の目には興味を引く演目がいろいろあったのです。そのマジシャンとはボードビルを中心に活躍し、マニピュレーション芸で評判が高かったネイト・ライプジグ(Nate Leipzig:1873-1939)です。
 彼はアメリカのクロースアップマジックの発展に貢献しプロフェッサーとして慕われたダイ・バ-ノンが若い頃大きな影響を受けたといわれている人物です。握った拳の指の上をコインがエンドレスに転がるコインロールという技を編み出したマジシャンともいわれています。そのライプジグが天一一座の演技の様子をM-U-M誌の1953年10月号に記していたのです。該当部分を見てみましょう。

 この思い出話は、ライプジグの ”ウォンドに通した指輪を抜き取る手品”(Ring on Stick)の評判を耳にした天一が「その秘密と交換にサムタイを教えたい」とビル・ブース(Bill Booth)という人物を通して希望を伝えた結果、ライプジグがそれに応えて天一の劇場に出向いたというところから始まります。これは欧州から戻ってアメリカのデトロイト市のテンプル劇場(Temple Theater)に出演していた時のことで、1904年10月17日から23日迄の間の出来事でした。

ネイト・ライプジグが見た天一一座の演技

 楽屋裏でのマジックの交換は多少英語が出来るようになっていた天二が加わって無事終了し、その後ライプジグは観客席に座って一座の演技を目にすることになりました。この時彼はサムタイや水芸だけでなく他の演目も目に留め、その現象や印象を書き残していたのです。

その一つは今日メリケンハットとして知られるものでした。

He had another trick which was new to me. A Japanese girl came out with a small black felt hat which she showed and turned inside out several times, producing afterwards quite a lot of articles out of it. She repeated the operations and then threw it out into the audience to be examined. When it was thrown back to her, she immediately proceeded to take more articles out of it.


 これによると「黒いフェルト帽を手にした娘が出てきて、その表裏を改め、そこからいくつもの品物を取り出し、それを何回か繰り返したあと、帽子を観客席に放り投げて調べさせ、再度それを受け取って更に品物を出した」とあります。

次に見たトリックには完全に騙されてしまったと述べています。

Another Japanese girl came on the stage with a drinking glass and a coin wand in her hands. She showed the glass empty and put it on a small table, then she went down amongst the spectators, the spotlight being thrown on her. She produced a coin with the wand, apparently threw it towards the stage, where the coin was heard to drop into the glass. These actions she repeated six times, then returned to the stage, picked up the glass and poured six coins out of it.


 ガラスコップとウォンドを手に持って現れた娘は、コップが空であることを示してテーブルに置き、客席の中に降りていったのです。 そこでウォンドを使ってコインを現わすとそれをステージの方に放り投げるやコップの中にチャリンと音を立てて入ったというのです。 この現象を6回繰り返した後で舞台に戻り、コップから6枚のコインを取り出して見せたのです。
 この最後の部分でライプジグは煙に巻かれてしまったと白状しているのですが、もう一度見る機会を得た際、そのあまりに大胆なやり方に騙された自分に失笑してしまったと記しています。 それというのも演者が客席に降りていくのに合わせ、スポットライトが演者を追いかけていったそのタイミングで、別の助手が何気なく舞台の袖から出てきて秘かにコインをコップに入れ、そのまま立ち止まることなく舞台の袖に入っていったので全く気付かなかったのです。 助手はそこで別のコップと6枚のコインを手にしたまま待機し、演者が舞台に向かってコインを投げるフリをするのに合わせて手元のコインをコップに落とすことで「完全な錯覚をもたらされてしまった」と述べています。

デトロイトのTemple Theater

 以上が、ライプジグが目にした天一一座の小品芸ですが、ここで新たにわかったことは、天一一座がメリケンハットをその時点(明治35年前後に相当)にすでに演目にしていたこと、コインを空中から自由に取り出すことのできるコインウォンドを使っていたことです。

 ということは、天一一座はこれらの演目を日本出国前からレパートリーに取り入れていたということを意味するのでしょうか。それとも海外で目にしたこれらの演目をいち早く取り入れて演じるようになったのでしょうか。とても興味をそそられます。なぜならそれまでの日本の新聞記事などでは彼らがそれらしきものを演じた形跡が見当たらないからです。

気になる日本での初演

 まずは、帰国直後の歌舞伎座公演でこれらがどのような演目名で演じられたのかが気になります。ライプジグを感心させた演技を日本で演じてないわけはないと思うからです。

歌舞伎座公演時のプログラム(明治38年10月)

 タイトルが抽象的なので判然としませんが、メリケンハットが演じられていたとすれば、天勝の「美人忍術」か、天花の「器物の現出」の演目がそれに該当するでしょうし、コインウォンドを使ったコインの出現と飛行であれば「美人忍術」の中で演じられていたのではないかと思えますが、新聞などの芸能記事にはメリケンハットやコインウォンドが演じられたことを示すような演劇評は一切見えません。 水芸やサムタイに比べ華やかさに欠けたため記事にならなかったとの解釈も可能ですが、水芸やサムタイの方は以前から演じているものですから、もしメリケンハットやコインウォンドが帰国土産であれば口八丁の天一であれば口上巧みに観客に披露するに違いありませんから記事になる可能性は十分あるように思えますし、独立した演目としてプログラムに載せてもおかしくないとも思えます。 いずれにせよ帰朝公演の演目からはそれ以上のことはわかりません。

 そうとなると腰を据えてその起源や日本での初演時期を突き止めたくなります。 実際に調べていったところ、そのことに関連する記述などが2、3見つかりました。 ところがそこに書かれていたことはそれぞれが相互に矛盾するものであることが分かりました。 また、いずれも根拠が曖昧だったり記憶や推測にもとづくものになっていたりしていたので、簡単に結論を出すようなわけにはいかなくなったのです。 こまかい検証記事は長くなりますので、それについては別途「メリケンハットとコインウォンド(ダラ棒)の謎」(仮称)のような形で機会を見て報告したいと思います。

一座が演じたその他の日本手品


ニューヨーク・ヘラルド紙1902年2月9日の
記事に載った天寿の袖玉子

 実は、上記の2つ以外にも現地の新聞で明らかになったものがありました。 それは「袖玉子」でした。 1902年2月9日のニューヨーク・ヘラルド紙に載っていた写真を見ると、天寿(Ten-Toshi)演ずるEgg Productionを天清が助手役として引き立てていることがわかります。 この記事以外に袖玉子が演じられていたことを記したものは見つけられませんでしたが、欧米では既にエッグバッグは広く知られていたためあまり目新しい印象を受けなかったのかも知れません。
 エッグバッグは、古くは1584年にフランスのジャン プレヴォー(Jean Prévost)が著した “Première partie des subtiles et plaisantes inventions” にあり、またホフマン(Professor Hoffmann)の “Modern Magic” の説明によれば、長い間バッグはかなり大きなサイズだったとされ、演技の最後には鶏を出して終わるという演出も行われていたとの解説がなされています。昔のエッグバックは大きかったということを知ってしまうと、日本の袖玉子が日本起源のものなのか、それともどこかでヨーロッパ人との接点があって日本的にアレンジされたものかどうか興味が湧いてきますが、それらの手がかりはまだ全く見あたりません。

【2020-8-22記】