注目されるのは東京で発刊されて間もなかった英字新聞のThe Tokio Times(週刊新聞)がその8月25日号でケロッグの記事について速報したことです(p.109)。明治10年の国際郵便事情を考えると信じられない速さでケロッグの話が伝えられていたことになります。そこにはケロッグが寄せた記事について要点を記した上で、次のように述べています。
これらの御世辞満点の表現は、われわれが馴染んでいる日本の曲からいっても納得のいくものではありません。多分、日本で最高のものといえばせいぜい17年ほど前に小生が“All the Year Round”で紹介した「ひとつとや」です。芝居の中のドラマチックな場面では効果的で印象に残る演奏が時折聞こえることがありますが、それとて西洋標準でいえば、日本の音楽は全体として高いランクにあるとは言えません。
同紙は続く10月6日号で、ケロッグ女史の元記事の全文を改めて掲載するとともに(p.191、但し譜面なし)、それに対する編集子の詳細な論考(p.189)を載せるといった力の入れようでした。そのポイントを意訳して紹介します。
The Tokio Timesという英字紙は明治時代初期に短期間刊行されたものです。1877年1月から1880年6月まで3年半に渡って東京で発刊されていた週刊新聞で、編集発行人だったエドワード・ハワード・ハウス(Edward Howard House:1836-1901)はもともとニューヨーク・トリビューン紙の記者で、南北戦争等ではその正義感に燃えた記事で名を高めたと伝えられています。その彼が特派員として東京にやってきたのは明治2年(1869年)のことでした。それ以来日本の国柄や日本人の気質などに触れてすっかり親日家になってしまうのですが、ケロッグ女史による日本の曲への無条件なまでの賛辞に冷静な論評を加えたのはその彼だったのです。
“Appletons' cyclopedia of American biography” (1887) によれば、「エドワード・ハワード・ハウスは1836年生まれ、父親は著名な金属彫刻家だった人で紙幣の製版の仕事を生涯任されていた。息子のハウスは独学の人で、1850年から1853年に掛けては音楽を学び、このころ作曲した軽交響楽曲作品がボストンで演奏された」との記述があります。
ハウスは日本で後半生を過ごしていますが、養女「琴」が記したエドワード・ハウスの墓碑銘の後半部分に「翁資性(しせい:天性)樂を好み能く自奏彈し、又作曲に巧なり。晩年宮内省雅樂部及明治音樂會の為に指導誘掖する所少からざりき」とあるところから、ハウスは文筆のみならず音楽の才能にも恵まれていたことがわかります。
そのハウスによるTokio Times紙での反論記事が英米にどれだけ伝わったかは定かでありませんがケロッグの日本のメロディーへの賛辞はそのまま沈静化することとなりました。このように書くとハウスの目には西洋文化優位の視点があったように誤解される向きもあるかと思いますが、事実は全くそうではありません。むしろ日本が幕末に米英などと結んだ修好通商条約がタウンゼント・ハリスの高圧的な態度や、日本が条約締結に不慣れだったことも災いして内容的には治外法権や不平等な関税を押し付けられたものであったことを欧米の誌面で暴露し、日本側の立場に立って正義感ある記事を発信し続けてくれた数少ない歴史上の恩人といっていい人物だったのです。そこで17年前に書き残したという ”All the Year Round” での彼の日本の音楽に対する記事に進む前に、ハウスの人間像がわかる業績のいくつかを見ておきたいと思います。
アメリカの高級雑誌 ”The Harper’s New Monthly Magazine” の1873年5月号にハウスが寄せた ”The Present and Future of Japan”という記事があります。そこには日本が不可能なまでの急激な社会体制の変化を一日で成し遂げ、欧米との修好通商条約を結んだ現在、如何にして直ちに全国に外国流の法律を適用して自由な商いに委ねるべく努力しているのに対し、外国勢は条約に記載されたことを守っていない現状を伝えています。またアメリカに限っても修好通商条約の第二条に示された「日本と欧州各国との政治的衝突が生じた場合は、米国大統領は日本への友好国としての立場から仲介調整を行う」とされているにもかかわらずサハリンへのロシアの侵攻に対する日本の依頼に対しほとんど無視していることなどを明らかにしています。
また ”The Shimonoseki Affair: A Chapter of Japanese History” (1875年)では下関海峡を無断で通過していた四か国の軍艦に対し長州藩が砲撃を加えて戦端が開かれた下関戦争に関し、日本が諸外国から理不尽に賠償金を払わせられていたことを指摘しています。彼は日本には落ち度はないことを解説するばかりか、むしろ日本の領海を無断で通行を強行した欧米側こそ国際法上許されない行為であることを論じています。結局米国への支払い済みの賠償金全額が全額日本に戻ってきたのですが、彼の国際世論を動かす活動が功を奏したものと考えられています。
また、ハウスは外国人として初めて日本人部隊に従軍記者として参加が許された人物でもありました。その実体験をもとにまとめた『征台紀事、The Japanese Expedition to Forsama』(1875年)では日本人が高い倫理観や公正な感覚を持っていることを世界に向けて克明に記して紹介しています。そこでは漂流琉球人を大量虐殺した台湾部族に対する談判から出兵に向けた経緯をはじめとして、清や欧米各国への事前説明で国際社会が理解をするように万全を期して行動した経緯や、最初から領土的な野心がなく最後に撤兵したこと、更には日本人が銃撃戦の中で示した人間性などが報告されています。
極めつけは ”Atlantic Monthly” (May 1881)に寄せた ”Martyrdom of an Empire” (帝国の苦難)という不平等条約に関する論文です。ハウスいわく、ペリー提督の遠征で日本が開国した後、タウンゼント・ハリスの並々ならぬ努力で修好通商条約を結んだ結果、その後に来たイギリスのエルギン卿は易々と同じ内容の条約に調印出来たという経緯があったと説明しています。しかしハリスが原案を作り1858年に日本と調印した条約には重大欠陥があると指摘したのです。どちらか一国の要求で1872年に条約改定が出来る事になってはいましたが、通常の条約には挿入すべきはずの条約有効期限が設定されていないいわば永久条約であって当然力の強い国が反対すれば改定さえ出来ない代物だったのです。この条約は日本には全く不利で特に貿易額の過半数を握る最大貿易国のイギリスには多大な利益があったため、イギリスは日本の条約改定要求に応じはしても常に言い逃れをしたり無謀な逆提案をしたりして来たとその実態を暴いています。その結果日本はイギリスからの安い輸入品が溢れかえり自国産業が壊滅状態になっていると述べています。実際、アメリカ政府の費用は関税収入で賄われているし、イギリスも半分を関税収入で賄っているのに対し、日本は6%にも満たない状況にあり、国家予算全体で見ても日本の関税収入は3%程度で、そのほとんどは農民からの税収入に頼っている。一方のイギリスは自由貿易を唱えるが、日本からイギリスへの輸入品には輸入税をかけ、その総額は日本政府の総関税収入より大きい金額に上ると具体的な数字を載せて説明し、イギリス代表として日本に駐在していたハリー・スミス・パークス(Sir Harry Smith Parkes)公使への個人攻撃へと続くのです。さらに同雑誌の1887年12月号の巻頭論文にとりあげられた ”The Thraldom of Japan”(日本の苦役)ではタウンゼント・ハリスが20年前の条約に盛り込んだ治外法権で日本がいつまでも不当に苦しめられている実情を国際世論に訴えています。
このようにエドワード・H・ハウスが終始日本の立場に立って国際社会の正義に訴えてきたことは多くの人に忘れられていますが、実際にはその言論活動によって英米が動かざるを得なくなり日本が大いに助けられてきたことは広く再認識すべきことと思います。現代の日本に欠けている人材ともいえるでしょう。ちなみにそのハウスは日本で没していますが(墓地は北区田端)、亡くなる直前に日本政府から勲二等瑞宝章を授与されています。せめてもの感謝の意が伝わったことを願っています。
幕末から明治にかけての芸能史に関連して、音楽の歴史を追っかけて行ったつもりでしたが、いつしか本題から離れてエドワード・H・ハウスの業績紹介に移っていくことになりました。ただ敢えて氏の話を詳しく取り上げたのには意味があります。それは彼の記事を追っかけて行った結果、日本の曲が初めて海外に紹介されたのがいつ頃のことでそれがどのような経緯で海外に伝わったのか、それを紹介した人物がどのような人だったのかを知ってもらいたかったからです。最後に彼の伝えた初めての日本の歌を紹介することにします。