すでに述べたように、「日本人村博覧会」が開場になって間もない1885年の5月25日、ロンドンのサヴォイ劇場(Savoy Theatre)でミカド(The Mikado)というオペラが開演になりました。
ウィリアム・S・ギルバートの脚本にアーサー・サリヴァンが曲を付けた風刺オペラです。ミカド(天皇)という言葉は開国前後から西洋には広く知られていました。特に軽業一座が頻繁に海外興行するようになるとその宣伝文句には「ミカドの許しを得て海外行きを許された一座である」といった文言が散見されるようになり、ミカドという日本の皇帝の存在が広く興味を集めるようになっていたからです。
このオペレッタが大ヒットしたことはよく知られていますが、ここで注目したいのは、そこで使われた音楽に日本の曲が一部挿入されていたことです。「宮さん宮さん・・」で始まるあの曲です。「トンヤレ節」ともいいます。以下にリンクしたThe Mikadoは初演時の楽譜をそのまま使って再演されたものですが、最初の序曲の部分(0:25)と、中ほどのミカドが登場する場面(1:21:6)の2か所にこの「宮さん宮さん」が使われていて、後者には日本の元歌の歌詞が唄われています。 https://youtu.be/c_DlC4n9CFQ
彼らが歌っている歌詞は以下です。元歌を訳さずにそのまま再現しようとしたものになっています。
Miya sama, miya sama
On n'm-ma no mayé ni
Pira-Pira suru no wa
Nan gia na
Toko tonyaré tonyaré na?
ちなみに元歌は以下です。
宮さん宮さんお馬の前に
ヒラヒラするのは何じゃいな
トコトンヤレ、トンヤレナ
あれは朝敵征伐せよとの
錦の御旗じゃ知らないか
トコトンヤレ、トンヤレナ
これは慶応4年(明治元年)3月、「薩長土肥」の軍勢が王制復古の勢いに乗って江戸へと攻め入ったその道すがら、兵士たちが行進しながら口にしたと言われるもので、文字通り日本における最初の軍歌でした。The Mikadoの初演は17年後の1885年(明治18年)であるため、その間に誰かがこれを英国に伝えていたことになります。それは誰か。実は、この曲をサリヴァンに伝えた人物が誰なのかはすでに明らかになっています。それはギルバートが新聞社に語った話 "The Mikado: Mr. Gilbert Explains a Famous Air."(Morning Leader紙, 2 May 1907, p. 5)の中にありました。(The Gilbert and Sullivan Archiveに所蔵)
それによれば、幕末から明治初期にかけてイギリスの外交官として日本に滞在したバートラム・ミットフォード(A. B. Mitford)が帰国後この曲を教えていたのです(注2)。なんとミットフォードがThe Mikadoのリハーサルの場に立ち会っていて、その時にギルバートとサリヴァンの二人から、ミカドが登場する場面で最も適切な曲と歌詞はないかを尋ねられ、日本や日本語を熟知していた彼はすかさず「 “Miya-sama” が一番相応しい」と答えたため、そのアイデアに飛びつき実現したのです。記事では、その場の様子が語られています。サリヴァンがミットフォードのハミングに合わせて曲を採譜し、ギルバートが詩を書き起こしたと具体的に伝えてくれていたのです。
http://www.gsarchive.net/gilbert/letters/morn_lead/mikado.html
勤王派が歌った曲なので、天皇が登場する場面では確かに「これが最適だ」と進言したのは分からないことではありません。ただ、歌詞にある「宮さん」とは、戊辰戦争時に新政府の総裁で東征大総督でもあった有栖川宮熾仁親王のことを意味していたことまでミットフォードは知らなかったかもしれません。
注2:ミットフォードは1866年から1870年まで公使館員として通訳などをしていましたが、在日中に日本の芝居劇やお伽噺などを丹念に集めて “Tales of Old Japan, 1871”という著作を出しています。赤穂四十七士、権八小紫、船越重右衛門といった小説から、舌切り雀、桃太郎、カチカチ山、花咲か爺さんなど、古くから親しまれている童話や説教話なども翻訳収録し、日本人の民衆の価値観や心象風景が広く紹介されています。
西洋音楽が日本人の耳に最初に触れたのは、実は開国以前のことでした。それは「宮さん宮さん」と同じく軍楽隊によるもので、ペリー提督率いるアメリカの黒船艦隊が日本に開国を迫るためフィルモア大統領の国書を携えてやってきた1853年に遡ります。紆余曲折を経て上陸の地として選ばれたのは久里浜でしたが、ペリー提督の上陸に際し、真っ先に国旗と音楽隊が浜辺に降り立ち、その進軍ラッパの中を国書を抱えた係や提督が上陸したあと、他の兵員が続くといった形式をとっていました。その時に流れた曲はヤンキー・ドゥードル(Yankee Doodle)でこれが行進曲として使われたのです。管楽器と打楽器で奏でられたこの曲は独立戦争時のアメリカで親しまれていたので「軍歌」とか「行進曲」と言ってしまうと少し誤解を招きかねませんが、このリズム感が18年後に作られた「宮さん宮さん」を作曲する際の参考になった可能性はあってもおかしくありません。
ちなみにヤンキー・ドゥードルは明治21年に「慈愛の笑顔」として『明治唱歌第二集』に五線譜付きで組み入れられ、その後は「アルプス一万尺」として今なお愛唱されています。
さて、サリヴァンが「宮さん宮さん」を「ミカド」で使ったのと同じ年にタンナケル・ブヒクロサンが「日本人の歌」を作詞作曲して歌っていたことは前述した通りですが、日本人村博覧会のためにタンナケルはもう一曲作っていました。題してJapanese Village Waltz (ワルツ)です。これも大英図書館(The British Library)に一緒に所蔵されていました。こちらもJohn Crockerが弾いてくれたものを紹介します。歌詞はありません。
Japanese Village Waltz
正に本格的なワルツです。ここまで耳にすると、さすがにタンナケル・ブヒクロサンが日本生まれの二世とは考えにくくなりました。日本人一座を率いて明治元年にメルボルンで興行して以来、一度も日本に帰国していないことも含め、日本の香りがほとんど感じられなくなっています。タンナケルの前半生を追及する上で大きな転機をもたらした資料になりました。
ちなみに小山騰によるその後の研究『ロンドン日本人村を作った男』(2015、藤原書店)は衝撃の書となりました。それによれば、タンナケル・ブヒクロサンはオランダ生まれのオランダ人、本名フレデリック・ブレックマン(Frederick Blekman)で、開国直後の日本に来てイギリスの初代駐日総領事ラザフォ-ド・オールコックに通訳として雇われたというのです。当時の日本人通詞(通訳の事)は長崎貿易を通じてオランダ語を主として学んでおり、英国総領事としてもオランダ語を解する職員が必要だったのです。英国領事館に雇われたのが1859年で、日本人一座を組織して海外に出たのが1867年なのでそれまで8年ほど日本語と英語に慣れ親しむことになったのです。
その彼が日本人の風俗や軽業芸にいくら興味を持ったとしても、何故安定した仕事を離れ、名前を変え、日本人との混血を主張し、リスクを冒してまで人生航路を変えたのかには訳がありました。実は、彼は幕府の欧州交渉使節団に通訳として駆り出されたり、船舶の購入発注にかかわる費用を預かったりと重要な役割を託されたのですが、もろもろの事情で計画が中止になったにもかかわらずその預かり金を幕府に返却することなく逃亡するという事件を起こしていたのです(ブレックマンの逋債事件)。事件は紆余曲折し一旦は拘留されましたが濡れ手に粟の巨額の金を手にすることになったという複雑な経緯をたどりました。
以後ブレックマンは本名を隠しタンナケル・ブヒクロサンとして芸人一座を連れまわすことになりますが、日本語を解すること、英語はどうやら母国語ではなかったこと、海外に日本人を引き連れ、最後には日本人村博覧会という大事業まで実現できるほどの資金力があったこと、オールコックとの接点を得ていた経緯など、多くの謎の辻褄が合うことになったのです。