世界のマジックが英国を中心に回っていた19世紀後半。芸を携えて渡欧したGintaroという若者がいた。この人物は100年以上も前に、世界のマジック界をリードしていたマスケリンとデバントのショーに頻繁に出演するという偉業を果たしていたのである。日本人マジシャンでは石田天海や島田晴夫の世界での活躍はよく知られていますが、それよりずっと前に大活躍していた人物を見出し、その一生を調べ上げたのが松山光伸さんです。
主人公の一生もさることながら、松山さんが調査に至った動機やその徹底した追跡作業の経緯も網羅されているこの連載記事は、マジックや芸自体の研究にとどまることなく、それに取り組む人物像に接近することの大事さを訴えているようにも感じます。
今回、東京堂出版の許諾のもとに、ザ・マジック誌で連載したものを加筆修正していただき、マジック・ラビリンス上に掲載の運びとなりました。
連載に至った背景などを伺いました。
Q.(東京マジック)
興味を持たれたキッカケについて伺います。
A.(松山)
本文でも触れていますが、キッカケは全くの偶然でした。たまたまロンドンのマジック・ショップに立寄った時にウィンドウに飾ってある厚い本が目に入ったのです。もともと何も買う気はありませんでしたし、この本も値段を聞くと75ポンドほどする高価なものでしたからやめようと思ったのですが、パラパラとめくった時に目に入ったのが古い日本人の写真でした。
Q.
気になる人物だったということですね。
A.
マスケリンとデバントが活躍していた奇術の黄金時代を描いた奇術史の本でしたが、その時代に日本人として同じ舞台を踏んでいた人物がいたことを知り驚きました。この人はGintaroといいますがその名は初めてでしたし、日本の奇術界でも知っている人はいないと確信したのでとにかく買ってしまったのです。
Q.
それでやはり注目すべき人物だったのですか。
A.
実は、そこには多くの情報が書かれていたわけではありません。でも数日の滞在中に少しでも調査のキッカケを掴んでおかないとこの人物は永久に埋もれたままになってしまうと思ったのです。そこですぐ世界で名高いザ・マジック・サークルの門を叩いたというわけです。
Q.
その辺が尋常ではありませんね。
A.
そこで知り合った図書室次長のテリー・ライト氏にはいろいろ力になってもらいましたし、図書室長のピーター・レイン氏のコレクションにも参考になる掘り出し物がたくさんありました。ただ少しずつわかってくるに連れGintaroの生涯にはますます興味が湧いてきたのです。というのも初期の渡欧芸人の生涯が明らかになっているのは、1902年に出国した軽業師の沢田豊が一番古い人物でしたが、このGintaroはそれよりもっと古い1887年の渡英で、なおかつマスケリンとの競演は他の誰よりも多いことが判り非常に関心を持ったのです。後で見つけた記事によればマスケリンやデバントとは6千回も一緒に演じたと書かれていました(1日に2度の公演で20年以上の深い付き合いであれば十分ありえます)。
Q.
島田晴夫さんがマジック・キャッスルで1千回も演じていると聞いたことがありますが。
A.
ええ、ですから如何に卓越した人物だったかがわかりますが、それも渡英したのは英語などしゃべれない12歳だったのですよ。普通だったらすぐ浮浪者になっておかしくありません。一体どうやって成功したのかどうしても知りたくなりませんか。私が懸命に調べた動機はまさにその一点です。わかったことはつぶさに記しておきましたし、確認できていなかった情報を現地の友人が追加で調べてくれた結果、その一生については手にとるように判るようになりました。
Q.
主人公はジャグラーですが、マジシャンにとっても参考になりそうですね。
A.
もちろんです。マジックの黄金期を舞台にした日本人の一生です。英国のマジックはボードビルの活況で一座形式が衰退し、映画にも客を奪われ、第一次世界大戦で壊滅していきますが、Gintaroは生涯活躍するのです。海外に羽ばたきたい方にはぜひとも読んでいただきたい一生です。